学生時代、早大野球部に在籍していたが、腕前は捕手10人中10番目。それでも、いつかは野球の仕事に就きたくて……卒業後も会社勤めの傍ら、アマチュア野球観戦で全国を飛んで、チャンスを探っていた。そんな安倍昌彦氏が40歳を過ぎて巡りあったのが雑誌『野球小僧』(白夜書房刊)のライター業。
そして2000年、アマチュア有望投手の球を直に受け、その「球の味」を文章に認める人気連載をスタートさせる。人呼んで「流しのブルペンキャッチャー」。本誌初登場の今回は、注目の「斎藤世代」を一刀両断!
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巨人・沢村拓一投手の評判がよさそうだ。
11日には打撃投手として、阿部、小笠原、ラミレス、高橋由伸といった球界を代表する強打者たちを、その「剛速球」で抑え込んでしまった。打撃投手が打者を抑え込んではいけない。打ってもらうために、つまり打者の練習のために投げるという「役回り」を理解していなかったようだ。
彼にはそういう「かわいい」ところがある。一生懸命なのだ。
「同世代と比べられたくない」などとトンがった発言をして、ビッグマウスと言われたりしているが、根っこは、不器用でまっすぐな愛すべき青年である。
沢村投手のボールは、彼が4年生になる少し前の寒い時期に受けさせてもらった。シーズンに入れば忙しくなるのはわかっていた。機会を逸するのが怖くて、オフの時期にお願いした。
「足首痛めてるんで、キャッチボールに毛が生えた程度でいいすか?」
そんなことを言っていた彼のボールが、立ち投げの2球目からガラッと変わった。怒ったような腕の振り。凶暴なボールが次々、こちらのミットに叩き込まれる。
「だいじょぶ?」
「ぜんぜん平気っす!」
足、痛いって言ってたじゃないよ……。
「150近くいってるんじゃないですか」
立ち会ってくださったコーチの方も、沢村投手をなだめるのに一生懸命。投げる沢村、一生懸命。受ける流し、もっと一生懸命。ONとOFF。それしかないのだ。初めてつとめた打撃投手でも、思わず「ON」のスイッチが入ってしまった。沢村拓一に悪気はない。
腰を下ろして、さらにスピードアップ。彼がいったんモーションを起こしたら、もうまばたきはできない。ミットが間に合わない。
昨春のリーグ戦、中央大・沢村拓一は150キロ台のスピードをいく度もマークして、しかし6本の本塁打を奪われた。中には、154キロを左打者にレフトに放り込まれたことも。そういう「150キロ」だった。その証拠に、私ごときがなんとか受けられてしまった。必死だったが、それでも捕球できた。そういう「150キロ」。
上体のパワーにまかせた剛速球は、打者の手元であまりスピードを感じない。肝心なのは、「体感スピード」である。
このピッチャーが本気で緩急を使う気になったら、誰も打てない……。
沢村投手、変化球だって、高速スライダーに、カーブに、フォーク。コントロールを勉強すれば、切れ味は一級品の「飛び道具」ばかりなのだ。そして、昨秋、彼のピッチングは一変。本気で緩急を使いだした。防御率は0点台をキープ、春は6本奪われた本塁打は1本も許さなかった。
そして15日の紅白戦、一軍レギュラーや若手のホープ5人をピシャリと抑えた沢村拓一。スライダーでカウントをとり、フォークで三振を奪った。
稀代の緩急の使い手――プロで奮闘する巨人・沢村拓一の姿を想像すると、こうなる。その「線」を外さないことを条件に、1年目から15勝っても、ちっともおかしくない「緩急の沢村拓一」である。
■あべ・まさひこ/1955年、宮城県生まれ。早稲田大学高等学院を経て、早稲田大学に。同大野球部で捕手として大学2年までプレー後、3、4年時は早稲田大学高等学院で監督を務める。卒業後、サラリーマン生活を送った後に、スポーツジャーナリストに。
※週刊ポスト2011年3月4日号