もはや「政治主導」という言葉が空虚に感じられるようになったが、民主党は政権を担う以上、国民との約束を果たすべくその精神を堅持しなくてはならない。それを示すために、規制改革への踏み込みは重要な判断基準となる。3月に予定されている「規制仕分け」は、果たして期待できるものなのか、ジャーナリストの黒岩祐治氏が検証する。
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今から思えば政権交代を成し遂げ、初の事業仕分けに取り組んでいた頃の民主党は輝いていた。公開の場で予算がザクザク削られていく様は、新しい政治を実感させた。脱官僚依存、透明性とはこういうことかと多くの国民は喝采を送ったものである。
しかし、あれ以降、残念ながら政権交代の醍醐味を感じさせてもらったことは一度もない。そんな中、青息吐息の菅政権の起死回生策として行なわれようとしているのが、3月6日、7日に開かれる規制仕分けである。
民主党は仕分けという言葉にいまだに幻想を持っているのか。困った時の仕分け頼みなのかもしれないが、はたして2匹目のどじょうはいるのだろうか? そもそも規制仕分けとはいったい何なのか?
私は行政刷新会議の規制・制度改革分科会のメンバーであり、いわば今回のプロジェクトの一員でもあるが、規制改革が仕分けの土俵に乗せられることに違和感を禁じ得ない。なぜなら、規制改革は仕分けるべきものではなく、実行に移すかどうか、政権を担った者の決意と覚悟の問題だと思うからである。
先日完成した中間とりまとめは250項目にも及ぶ膨大なものである。正直言って、分科会として十分に議論した結果ではない項目もたくさん含まれている。
それを絞り込む作業が仕分けかと思うとそうではない。事前に10数件を選び出し、仕分け作業として一件につき2時間ずつ公開で議論をするのだという。事業仕分けのようにその場で結論は出さず、あくまで外部性、公開性をアピールしたいとのことである。
250項目から10数件を選びだす作業は政務三役が行なうという。どういう基準で選びだすのか、外部性、公開性というわりには、肝心の作業が非公開なのは釈然としない。何を選ぶかによって大きく変わるが、規制改革にはもともと今すぐに実現に向けて動き出すべき項目がたくさんあった。
それらに手をつけることもなく、項目を膨らませるだけ膨らませておいて後で仕分けるというのは、理解に苦しむのである。
※週刊ポスト2011年3月11日号