新興宗教の儀礼の中には、一般的には理解されにくいものもある。それらには実際どような意味があるのか、慶應義塾大学准教授の樫尾直樹氏が解説する。
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新宗教の信者は早朝駅前で掃除しているという話をよく聞くだろう。通常、奉仕活動の一環である掃除は、儀礼とは言わないかもしれない。とはいえ、「行」は定められた身体実践を反復、継続する(例えば座禅を組むなど)ことによって自己と向き合うことである。だとすれば、ゴミを拾い続ける清掃活動も広い意味では儀礼であり、「行」だと言える。
実は、多くの新宗教団体にとって掃除は定番の「行」であり、大半の教団が実践している。教団にとって掃除の意義とは、信者の精神を向上させること。すなわち、己の魂を磨くことにある。掃除を通して、自分の心を清めるのだ。
私は真如苑の早朝清掃奉仕の体験取材をしたことがある。早朝5時半頃から真如苑の本部がある立川駅前でゴミを拾った。真如苑は全国数百か所の駅前で、毎朝、清掃奉仕活動を行なっているのだ。こういった奉仕活動は、確かに自分自身を振り返るよい機会になる。ゴミ拾いを反復すると、次第に夢中になり、はたと気付くとゴミを拾いながら「救いがそこに落ちている」といった信念を抱き始めるようになることを体感できた。
他に私が体験した清掃奉仕活動として天理教の「回廊拭き」がある。毎年9月に、学生を連れて天理教本部を訪問し、神殿の回廊拭きをさせてもらっているのだ。両手・両膝に雑巾をつけ、四つん這いになって回廊を磨くのである。その際、回廊拭きをしていた20代半ばの男性信者のTシャツに「No Kairo, No Life」とプリントされていたことが強く印象に残っている。
また、宗教法人格こそ持っていないものの、京都の山科にある一燈園の清掃活動も非常に有名である。修行の一環で、他人の家の呼び鈴を鳴らし、「山科の一燈園の者です。御宅のトイレ掃除をさせてください」とお願いする。ある者は200軒もの家を回ったが、すべて断わられ、夕方になり、ようやく掃除をさせてもらえる家を見つけた。その時に、嬉し涙をボロボロと流しながら、汚れた便器を磨いたという。掃除の後に「ありがとう」と出されたお茶を前にして、また涙する。
やはり、掃除という行為が教団にとっては信者に反復的な身体実践をさせ、魂を磨かせる「行」としての機能を持っていることが見て取れよう。
※SAPIO2011年3月9日号