大震災に見舞われた被災地の現場に本誌記者が取材に行ったのは、大津波が直撃し、人口(約1万8000人)の約半数が行方不明となった宮城県・南三陸町。
震災発生から2日後に水が引き始めた街の目抜き通りには、波に呑まれた数え切れないほどの乗用車が積み上がっていた。
同町の中心部・志津川駅近くに住んでいた70代の男性が、地震発生時の様子を語る。「地震の時は母ちゃんと2人で懸命に逃げたよ。最初は身の回りの物をかき集めようとしたけど、消防車が“逃げろ、逃げろ”と叫ぶから諦めた。
隣の商店の親父さんは、盗難に備えて店のシャッターを閉めてるうちに波が襲ってきたんだ。慌てて4階まで駆け上がったけど、それでも胸まで水に浸かり、翌日までつま先立ちのまま冷たい水の中で耐えていたといっとった。生きてたのが奇跡だよ」
水が引いたので自宅の様子を見に来たというが、周囲は一面、瓦礫の山だ。「家がどこにあったのかもわからんなァ……」
そういって寂しそうに笑った。
目の前では、30歳くらいのスウェット姿の男女が、瓦礫に埋もれたタンスを開けて中を物色していた。自宅の荷物を回収しようとしているのかと思って見ていると、今度は隣の瓦礫でも同じことを始める。
やがて10 数メートル先にあった自動販売機に近寄ると、転がっていた鉄の棒で搬入扉をこじ開け、10数本の缶ジュースを取り出して持ち去った。付近には不明者の捜索にあたる消防団員もいたが、人目を気にする様子は全くない。
前出の年配男性は小声で本誌記者にいう。「こういうのは、あまりアンタたちには見せたくないんだけど……。でも、避難所には水も食事も毛布もない。さすがに咎めるわけにもいかんだろうさ」
この悲惨な現場を見れば、彼らを単純に「火事場泥棒」と呼ぶのは酷だろう。同じ出来事は阪神大震災でも起きていた。町民の避難所となっている志津川高校では、約300人の被災者が数少ない配給品を「どうぞお先に」と譲り合っていたことを忘れずに付け加えておきたい。
※週刊ポスト2011年4月1日号