【書評】オスカー・ワオの短く凄まじい人生(ジュノ・ディアス著 都甲幸治、久保尚美訳/新潮社/2520円)
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ラテンアメリカ文学というと、ガルシア=マルケスにしろ、カルロス・フエンテスにしろ、ふつうに現実を書くと現実を超えてしまう土壌があるようだ。だからあえてSFは必要ないのかと思っていたら、ここに登場したのだ。ドミニカ発のSF風味の小説が!
ノーベル文学賞作家バルガス=リョサの傑作『チボの狂宴』に猛烈な対抗意識を燃やして書かれたというのが、本書。どちらの小説も、1961年まで31年間、恐怖の独裁政治を敷いたトゥルヒーヨを扱っている。ディアスは「ペルーの白人であるリョサにドミニカのことが書けるのか」と息巻く。
この問いは「痛みを描く資格はだれにあるか?」という文学に普遍の問いにつながるだろう。人の痛みは当事者にしか書けないか。さらに、それは文学の想像力という小説の根底意義に関わる大問題にぶつかる。軽快なタッチで書かれる本書だが主題は重く、作者は自己批判を忘れない。
人物設定からして「型破り」だ。主人公はドミニカ生まれ米国育ちの、デブなオタク青年。筋骨逞しい好色漢(ペヤコ)という旧来のラテン男像を覆すへなちょこぶり。彼はドミニカ人であることに加え、米国の「ナード(オタク)」というマイノリティとして差別化されているのだ。
日本アニメやRPGにはまる彼を鍛えるべく、母親は息子を祖国に送りこむ。そこで彼はトゥルヒーヨの呪い(!?)と一族の凄惨な過去に出会い、オタク的な恋をする。
『チボの狂宴』は現在と過去という2本の時間軸を設定し、さらにそれぞれの中で時間と視点をシャッフルした複雑精緻な構成と叙法をとって、「物語」の究極の複眼化、および情感(スリル)の混交に成功している。
これに対し本書は「ウォッチャー」としての語り手が身を隠しつつ全編を語るが(でも結局作者は独裁者だ、とディアス)、歴史や政治情勢からコミックまで膨大な注釈が盛りこまれ、天下の独裁者も長い脚注の中でその死を語られる。「ストーリー」の主従を攪乱し、伝説に立ち向かう。これは雄々しくひらかれたオタク文学なのだ。
※週刊ポスト2011年4月1日号