潮の香りが漂う中、見る影もなくなった市庁舎の前に立つと、市長は静かに手を合わせた。岩手県陸前高田市――。人口2万3000人のうち死者、行方不明者2500人、1万人以上の被災者を出した。昆布、牡蠣などの海産物と、美しい海岸を持つこの町は、10mを超える津波によって8割の家を流された。
壊滅状態のこの町で避難民の支援に尽力する戸羽太市長(46)は、東京での会社勤めを経て、元岩手県議であった父の影響で政界へ。30歳で市議となり、今年2月、市長となった。8歳年下の地元出身の妻・久美さん(38)と2人の小学生の息子の一家4人の生活。久美さんの作る魚料理が何より好きだった。
震災当時、市長は市庁舎4階にいた。地震の直後、津波警報が鳴るまで少しだけ時間があり、その間に対策本部の立ち上げについて話し合っていた最中だった。
「津波警報が鳴り、職員と市民が屋上に逃げました。下を見ると逃げ遅れた市民がいて……。1階まで降りて必死に助けているうちに巨大な津波が襲ってきたのです」
眼前の建物が次々と押し流される。やむなく市庁舎に駆け込んだ。
「瓦礫のかたまりが流れてきて、そこに母と子が乗っている。『助けて!』って。でも屋上の私達にはどうすることもできなくて……」
その時、家にいた妻の久美さんは高台に向かう坂の途中で皆とはぐれたという。
「妻は近道をしようとして一緒に逃げている人と別ルートを通ったらしくて……。でもそれっきり。まだ見つかっていません」
停電のうえ、携帯電話も通じず。
一夜明けて分かった市内の惨状。家も船も全て流されていた。久美さんを探したいという思いが募るが、市長として未曾有の災害に陣頭指揮をとり続けた。毎朝7時半には臨時の災害対策本部とした市の給食センターでミーティング。避難所の食糧や水の残量、行方不明者の捜索状況を確認する。
職員は被災時から着の身着のまま。グレーの作業着は汚れ、無精ヒゲも目立つ。避難所となっている高田第一中学校では、市民や消防の人間と現状を把握し、要望を聞く。そして、給食センターに寝泊まりする日々。本誌が取材したこの日の夕刻、市長は初めて自宅に戻った。震災から10日後のことだった。
「あ、あった。あの青い屋根が乗っかった家が……私の家だ」
やっと戻って見た家は半壊していた。津波で流された別の家の屋根が、自宅の上にかぶる惨状。息子2人は学校から避難して無事だった。一家4人で過ごした日々が蘇ったのか、ゆっくりと目を閉じる。
「自分一人ならどこへでも行ってしまえるけど、私には息子たちがいる。陸前高田のことを嫌いになってもらいたくないんです。妻は行方不明のままですが、この町で2人の息子をずっと見守りますよ」
そうつぶやくと、足早に対策本部に戻って行った。
撮影■岡崎雅史、末並俊司
※週刊ポスト2011年4月8日号