震災被災地の現状が報じられるたび、何か手を差しのべられることはないかという気持ちを募らせながら、一方では原発事故の影響がわが身に迫る可能性に恐れおののいている私たち。そんな私たちが、この国のためにできることとは何か? かつて緑茶のCMキャラクターとしてもおなじみ、服飾評論家の市田ひろみさん(78)は戦争と阪神・淡路大震災を生き抜いてきた。彼女はこんなことを語ってくれた。
* * *
1945年の終戦時、小学6年生だった私は、上海から北京、平城、釜山を経て、京都に帰りました。戦時中には、おばあちゃんの家にみんなで疎開し、ひとつのおにぎりを分け合って食べた経験があります。
当時、信じられたのは、人間の絆です。親きょうだいが集まっての安心感が心の支えでした。孤独は何よりつらいんです。近所からも、お味噌やお漬物をもらって助け合いました。友情もありがたかった。着るものも、食べるものもなかったけれど、励まし合って“がんばろうね”という空気が生まれていました。
阪神・淡路大震災のときは、みんなで一緒に歩いて水を汲みに行きました。いま復興して元気になった街を見ると当時が信じられないけれど、10年かかって神戸はやっと形らしくなりました。だから東北の人たちも決してあきらめないでほしいです。
戦時中、私たち子供は、親を心配させまいとしてわがままをいいませんでした。母親からは“我慢しいや、我慢しいや”といわれて育ちましたから。いまの子供たちは我慢とか耐えることに関しては、けっして強くないかもしれません。でも長い人生を考えると、成長するとき、我慢して耐えて、大きな心を持った人になっていってほしいと思います。
大人は子供たちに“いつまでもこうじゃない。いまによくなるよ”と希望を持たせてあげてほしい。戦時中、私も親戚や周りの大人たちからこの言葉をいわれて希望を持てました。家族を守らなければいけない人は、しょげててもあかん。お母さんは、子供や家族が落ち着ける場所をつくってあげてほしいです。
鎮魂の心と再生の意欲。関西の人は、被害に遭わなかったぶん、再生に協力しないといけないと思います。「あきらめないで、ひとりじゃないよ。負けたらあかんえ」、そういってあげましょう。精神的にどん底だと思いますが、必ず今日より良い明日があると信じてほしいですね。
※女性セブン2011年4月14日号