震災直後から全局が報道特番一色となったテレビ局。しかし、その内容といえば、扇情的な映像を繰り返すばかり。弊害多きテレビの現状を勝谷誠彦氏が嘆く。
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今回の日本のテレビ報道には震災、原発いずれにもヒリヒリするような映像がない。海外の放送を見ていると、必ず映像には自衛隊や米軍が映りこんでいる。
BBCの記者は被災者と一緒に津波の危険から逃げていた。日本のテレビ局は、イラク戦争の時などと同じように臆病だからそうした場所に行かないのか、あるいは妙なイデオロギーのせいで自衛隊などの活躍を流さないのか。死体の映像も避けている。見たいか見たくないかを判断するのは視聴者である。おまえたちのない脳味噌で勝手に判断するのは、これは検閲にほかならない。
私がもっと腹が立ったのは天皇陛下のお言葉のテレビ局での扱いだった。陛下が自ら私たちの前にお出ましになり、踏み込んだ発言をなされた。皇室不要論者に場合によっては政治的だと指弾される可能性までおかして陛下は直接お話しになられた。
それは私に終戦時の昭和天皇を彷彿とさせた。まさに最大の有事にあたっての「平成の玉音放送」だと頭が下がった。陛下は現場で命をかけている人々として最初に自衛隊の名を挙げた。
ずっと「鬼っ子」だった自衛隊を陛下が激励されたのである。ある最高幹部から聞くところでは、これを受けて隊員たちは涙し、奮い立ち、それが命をかける行動にも駆り立てていったのだと言う。まさに、最後で最大の日本民族の切り札である陛下が立ち上がり、救国のために行動されたのだと思う。
陛下は「非常事態が発生した場合は発言のビデオを途中で中断してください」と言葉を添えられたという。この大前提は陛下のお言葉を途中で切るなどということは畏れ多いという、日本のテレビ局ならば連綿と受け継がれてきたはずの想いがある。ところが。
緊急放送のために切るどころか、テレビ局は陛下のお言葉を時にはつまんで流しやがった。お言葉は陛下ご自身が練りに練られたものと拝察できる。それをバラエティのタレントの馬鹿喋りのように「編集」したのである。
ユーチューブなどで「オリジナル」を観た膨大な数の国民が呆れ、怒り「ああテレビというのはやはりその程度の人間が作っているのか」と再確認したことを、一連の災禍がややおさまったころに局は思い知るがいい。
この程度のテレビ局だからそんなことまで思い至るわけはないが、私が彼らであれば「陛下のお言葉を聞く被災地の人々」を流しただろう。皇室は皇室だけとして存在するものではない。国民との紐帯があってこそはじめて「最後で最大の切り札」となりうるのである。避難所で陛下のお言葉に接し、頭を垂れ、涙する人々の姿を観て、ほとんどの日本人は改めて何が起きたかを痛感しひとりひとりが出来ることを考えるだろう。
陛下は被災者の方々を敢えて「雄々しさ」と表現された。これは終戦直後に昭和天皇が使われた言葉でもある。日本人を鼓舞し、復興への大行進に向かわせる励ましである。お言葉を聞く被災者の方々の映像はその背を押したであろうに、テレビ局は貴重な機会を捨て去った。
※SAPIO2011年4月20日号