東日本大震災は、人類とテクノロジーの関係に大転換を迫っている。大前研一氏は、そう指摘する。そして、福島第一原発事故「最大の教訓」とは何か。以下は、大前氏の指摘である。
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なぜ十分なリスク管理がなされなかったのか? 本来ならエンジニアは、あらゆるケースを想定し、何系統もの電源や冷却手段を用意しておかねばならなかった。福島第一原発では5系統もの非常用冷却システムを考えてはいたが、それらすべてが電源を必要とするにもかかわらず、電源は3系統あるから万全、としたところで思考が停止していた。スリーマイル島原発事故で想定通りに機能した格納容器という「最終砦」に安住していた、といわれても仕方がないだろう。
また、この問題ではコストや利便性と安全性の関係という側面も見逃せない。コストや利便性のために原子炉6基を同じ場所に造り、貯蔵プールに新・旧の燃料棒を一緒に入れておいたことが被害をより深刻かつ複雑なものとしてしまった。
ならば確率論からはゼロに等しい事故の可能性まで考えて設計すべきだったかというと、それは現実的に難しい。確率を無視したテクノロジーは無限に高価になるからだ。低価格車のエアバッグが運転席と助手席の前面にしか標準装備されていないように、安全性はコストとのトレードオフ(一方を追求すれば他方を犠牲にせざるをえないという二律背反の関係)であり、絶対に乗員が怪我をしない車を作ろうとすれば、戦車のようなものになってしまう。
今後、もし原発を新設する場合は、今回の事故の反省をすべて生かし、たとえ全電源を喪失しても格納容器が損傷しても冷却機能だけは維持できる原子炉、絶対に放射性物質が飛散しない原子炉を考えねばならない。
たとえば、完全に別系統のループを外部から持ち込んだ電源車で崩壊熱の冷却を続ける、といった“現場の知恵”ともいえる発想が欠けていたことが今回の事故で浮き彫りになった。
つまりMITの大教授や原子力安全委員会など頭でっかちの「安全基準」の外側に、想定外の暴走を止める意外に簡単な仕掛けがあった、ということである。これから事故の解明が進む中で、数々のアイデアが浮かび上がるに違いない。
※週刊ポスト2011年5月6日・13日号