早坂牧子(はやさか・まきこ)さんは、1981年東京生まれ。2005年、仙台放送にアナウンサーとして入社。スポーツ、情報番組で活躍する。3月11日、仙台で東日本大震災に直面した彼女は、どのように仕事し、何を悩み、そして考えたのか。以下は、早坂さんによる、全7編のリポートである。(早坂さんは2011年4月、同社を退職、フリーアナウンサーとして再出発した)
* * *
「放送基準震度に達しました。地震が発生するまで10秒前。5、4、3……」
突然社内のスピーカーから聞いたこともない女性の声が流れてきたのは、3月11日14時46分のことでした。震度5以上の地震発生を知らせる機械の警報アナウンス。振り返ると、「10秒前」と言ったあとすぐに始まった「5、4、3……」という声は、それからの私たちの長い戦いの始まりを告げるカウントダウンだったのかもしれません。
そのとき私は仙台市内にある仙台放送の4階会議室でイベントの打ち合わせをしていました。初めて聞く警報アナウンスに動揺するまもなく、カウントダウン「1」の前に、足下が揺れ始めました。かつてない揺れに立っていられず、私は這うように四つん這いになって机の下に潜り込みました。
長い長い揺れが収まって、まず私がしたのはロッカーに走ることです。
社内にはスタジオでニュースを読むキャスターが他にいる。私の仕事は外に出てリポートすることだろう。その日の私はスカートにハイヒールだったので、ロッカーに常備してあるズボンと運動靴に着替え、メモとペンを持ち、腕に腕章を巻いてヘルメットを被る。
仙台放送の全アナウンサーのロッカーには必ずこうした「戦闘服」があります。いわゆる「女子アナ」といえども、大きな事件・事故では「兵隊」に変身するのです。
着替えた瞬間、ニュース担当デスクの怒鳴り声がフロアに響きました。
「誰か仙台駅に行け!」「行きます!」
手を挙げてカメラマンとアシスタントの三人でタクシーに乗って仙台駅へ。なぜ仙台駅かというと、社内では大きな地震が起きたときに仙台駅、仙台空港など抑えるべきポイントが決まっていたからです。
仙台駅に向かうタクシーの中から、ビルから逃げてきた人たちが道路の中央分離帯に集まっているのが見えました。なんで中央分離帯なのかあとで取材すると、みなさんNZ大地震のことが頭に残っていて、建物が崩壊するかもしれないから少しでも離れようと考えていたからなんですね。
とはいうもののタクシーの中から建物の崩壊は見えませから、そのときは「たいした地震ではないのかな」と思っていました。渋滞で苦労しつつ仙台駅についたものの、駅職員が拡声器で「危険ですから中に入らないでください」と叫んでいて、中に入って取材が出来そうに無い。それで高層ビル街などをリポートを付けながらカメラマンと回ることにしまた。
ところがほとんど被害らしい状況がない。一部のビルには壁の崩落がありましたが、ガラスが割れて空から降っているとか、建物が崩壊しているわけではない。カメラマンさんと「たいしたことないよね」と頷きあっていたときに、カメラ・アシスタントの男の子が携帯のワンセグで局の中継を見ながら「早坂さん違います」と震える声で伝えてきました。
「津波です」。彼が見ていたのは仙台放送が捉えた、まさに仙台空港が津波にのみ込まれようとした瞬間の映像だったのです。(つづく)