早坂牧子(はやさか・まきこ)さんは、1981年東京生まれ。2005年、仙台放送にアナウンサーとして入社。スポーツ、情報番組で活躍する。3月11日、仙台で東日本大震災に直面した彼女は、どのように仕事し、何を悩み、そして考えたのか。以下は、早坂さんによる、全7編のリポートである。(早坂さんは2011年4月、同社を退職、フリーアナウンサーとして再出発した)
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私たちクルーは、仙台放送が捉えた津波の映像を見て悩みました。このまま市内にとどまるのか、沿岸部の取材応援に行きくべきなのか。「兵隊」なので勝手に動くことはできない。しかし本社から持ち出してきた無線機がなぜか通じず(あとで技術の人間によると、消防など一斉に無線を使ったのでそういうトラブルになったのではないか、ということでした)、ただ立ち往生するばかり。
時刻は16時半、空から無情にも雪が舞い降りてくる。中央分離帯に避難した人たちは文字通り着の身着のままなので、ショップの店員さんなどは半袖姿で震えていました。
「どうしよう」。呆然としていたとき、奇跡的に本社と他の取材班のやりとりが聞こえてきたのです。なんでも私たちの近くにある老舗の木造旅館が崩壊したとかで、本社の「(キー局の)フジテレビが中継できないかと言ってきている」という問い合わせに、他の取材班が「こちらは手一杯で向かえない」と応えていました。
「じゃ僕らがそこに行こう」
カメラマンの判断で、向かったものの、すでに警察の規制が張られて近づくことも出来ませんでした。夜のとばりが降りてきて、しかし街中に明かりはひとつもなく、ただ星空だけが浮かんでいる。
--星空は綺麗なのに、この先どうなるんだろう。途方に暮れたことを覚えています。
私たちは近くのカメラマンの自宅に入り、3人だけの「会議」を開きました。そこでカメラマンはひとりだけこれまで取材した映像素材を持って自分のバイクで会社に向かい、私とアシスタントは歩いて会社に戻ることを決めました。
外は外灯はもちろんついていないし、コンビニも開いていないので真っ暗。ただ不安になって自宅にいられなくなった人々が街のそこかしこにたむろして、囁きあっている。家にいたほうが寒さはしのげるはずなのに、人は不安になると誰かとつながろうと思うのでしょう。真っ暗な闇の中から聞こえてくる不安な声を聞いていると、「世界終末」という言葉が嫌でも頭に浮かんできて、怖くなってきました。
1時間半かけて歩いて会社に戻り、被害者は数10人と聞いて同僚と「まだ増えるかもしれないね」と話していたちょうどそのとき、共同通信から緊急ニュースを伝える声がスピーカーから流れてきました。
<若林区の荒浜で、自衛隊が遺体200人を発見>
「誰が行くんだ!」「はいっ!」
ろくに暖も食事も取るまもなく、今度はカメラマンさん、記者さんなど七人が乗るバンの中の人となりました。
向かったのはご遺体が運ばれる予定の若林体育館。でもまだ何も動きがなく、翌朝早くからの取材に備えてバンの中で車中泊です。とはいっても、さすがに眠れない。まんじりともせず座席で身を横たえていると、前の席からカメラマンさんの寝息が聞こえてきました。私たちの仕事は「寝るのも仕事」とはよく言い聞かされるのですが、さすが技術さん、次の日の過酷な取材に備えてすぐ寝られるのは凄いなと思わざるを得ませんでした。(つづく)