早坂牧子(はやさか・まきこ)さんは、1981年東京生まれ。2005年、仙台放送にアナウンサーとして入社。スポーツ、情報番組で活躍する。3月11日、仙台で東日本大震災に直面した彼女は、どのように仕事し、何を悩み、そして考えたのか。以下は、早坂さんによる、全7編のリポートである。(早坂さんは2011年4月、同社を退職、フリーアナウンサーとして再出発した)
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震災翌日の早朝、本社から無線連絡で遺体安置所になるのが若林体育館ではなく、利府町にある「グランディ21」(宮城総合体育館)というコンサートも開かれるような大きな体育館に変更されたことを知らせてきました。移動して6時半に到着して放送の準備をしつつ、役所や警察の取材を進めました。
ご遺体は1時間に車2台ぐらいのペースで運ばれてきました。やりきれないなという思いと、「200人だけで本当に終わるのだろうか」という不安な思いが頭を巡る。目の前の状態が事実なのか信じられない状況の中で、中継に備えて(結局それはされなかったのですが)私が考えた原稿はこうでした。
「遺体安置所になることに決まった『グランディ21』です。ここに来るのは若林区七ヶ浜地区等のご遺体が運ばれてくる予定です。ご遺体は現在は1時間に車2台ぐらいのペースで運ばれていますが、警察の話によると……」
感情をなるべく廃して、事実に徹する。それは3年前の岩手・宮城内陸地震を報じたときに、感情をなるべく入れないようにしよう、余計な言葉で視聴者の不安を煽らないにしようとアナウンス室と報道局の間で取り決めがなされていたからです。
民放全般の中継のなかでは感情的な放送もありましたが、生真面目な放送姿勢は仙台放送のスタイルです。「視聴者の不安を煽ることは言わない」「亡くなった方に敬意を絶対忘れてはいけない」という2点は絶対に守るよう指示されていました。
初日は車で全員で会社に帰り、そのまま会社に泊まって朝6時半にまた出発しました。
私が初めて中継したのは、13日にその「グランディ21」の遺体安置所からです。ご遺体を確認に来られるご家族へのインタビューでした。取材相手を探す方法は、安置所から出てくる方の顔と雰囲気、仕草を見て判断するしかないのですが、涙を流している人には声をかけられない。なので携帯をいじっている人は、「肉親が亡くなってすぐ携帯はいじらないだろう」と判断して声をかけていました。
肉親を亡くされた方に敢えて聞くのが本来のジャーナリストかもしれませんが……私の中では泣かせてまで、そんな心をえぐるような取材はしたくない。会社を出るときも、報道デスクからこう言われていました。
「たぶん今日からご家族の方が遺体を確認するために来るだろう。無理に話は聞かなくていい、それはお前の判断に任せる。無理をしない範囲で、どういうお気持ちで来られたのかインタビューを撮ってこい」
「無理をしない範囲」というのはどこまでなのか、ベテランのカメラマンに私が「泣きじゃくっている方にマイクを突きつけたくない」というと、「そりゃそうだ。しなくて良いよ。地元の放送局としてそれはやらなくていいことだ」
彼の言葉を聞いてホッとしました。
ただ取材で伺った3家族は、凄くみなさん話してくれるんです。目があって会釈して返してくれると、おずおずと近寄って「すいませんが……」というと、みなさん堰を切ったように話し出すんです。「父を探しに来たんですがいなくて……」「他の安置所に回ろうと思うのですが……」。
これは後でフジテレビの人が「阪神淡路大震災のときと違って、被災者の方がマイクを向けても嫌がらない」と驚いていました。それが東北気質なのか、あまりの事態に途方に暮れていたのか。もちろん涙を流しているお母さんに取材に行った新聞記者さんが「子どもを亡くしたのに、あんたなんなのよ!」と絶叫して拒絶されている光景もありました。
ジャーナリストとしてあえて聞かざるを得ないのもわかります。かといって、個人としてそれは出来無い。初めての葛藤です。震災取材ではずっと個人としての自分と、取材者としての自分がずっと揺れていました。(つづく)