早坂牧子(はやさか・まきこ)さんは、1981年東京生まれ。2005年、仙台放送にアナウンサーとして入社。スポーツ、情報番組で活躍する。3月11日、仙台で東日本大震災に直面した彼女は、どのように仕事し、何を悩み、そして考えたのか。以下は、早坂さんによる、全7編のリポートである。(早坂さんは2011年4月、同社を退職、フリーアナウンサーとして再出発した)
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遺体安置所になっていた「グランディ21」で、印象に残ったお母さんの取材があります。お婆さんと子どもが出かけてしまって、まだ二人とも見つかっていない。不安そうな顔をしたまま
「だけどうちの子どもは生きていると思うんです」
と、自分に言い聞かせるように何度もおっしゃって……。あのお母さんは、私たちと話すことで自分を慰めようとしていたのかもしれません。
会社から初めて自宅に戻れたのは地震から3日目、13日の夜です。恐る恐るマンションのドアを開けて真っ暗な部屋を懐中電灯で照らしたのですが、全然なにも壊れた物もなく逆に拍子抜けしてしまいました。テレビも花瓶も落ちていないし、お皿の一枚も割れていない。冷蔵庫が30センチほど動いただけでした。あとから仙台市内に住んでいる同僚に聞くとみんな同じような「被害」状況だったので、やはりあの地震の怖さは揺れではなく津波だったと思います。
とはいえ水もガスも復旧していない(電気はその夜に突然ついてびっくり)部屋でひとり過ごすのはやはり不安ですから、着替えだけ持って会社に戻ることにしました。
地震から起きて3日間、お風呂もシャワーも浴びていなかった。社内には2台のシャワーブースがあるのですが、水しか出ないので風邪を引くのが怖いし、私は髪が長いので乾かすのに時間がかかり、その間にまた大きな地震がやってきたらまた取材で飛び出さなくてはいけません。
また実際、地震の緊張感と取材の興奮からお風呂に入っていないことは全く気になりませんでした。周りのスタッフもみな同じだったからかもしれません。睡眠も仮眠室なんてありませんから、机に突っ伏して寝る人も多かった。私は膝掛けを床に敷いてマスクとマフラーを巻いて寝ていました。
自宅から会社に戻ると、上司が私を手招きしました。
「妻の実家がプロパンガスだから温かいお風呂に入れるぞ。入れてやるからついてこい」
お宅にお邪魔すると、奥様のお父様とお母様が「まあまあ、大変ですねえ」と笑顔で紅茶を出してくださり、それまで自分がいた「戦場」とは違うありふれた日常に久しぶりに触れて感激しました。
そしてお風呂。温かいお湯を張った湯船につま先からそろそろと付けていき、全身を湯の中にゆだねたときに、それまで心の隅に澱のように沈殿していた緊張感、恐怖心がほろほろとほどけていくのがわかり、気づいたときには私は涙を流していました。お風呂の中で泣いたのは後にも先にもあのときだけです。(つづく)