原発賠償に税金投入を安易に決める議論が、いつのまにか進んでいる。そうした議論の中から抜け落ちている問題点について、大前研一氏が指摘する。
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時を追って東日本大震災の被災者の経済的困窮が顕著になる中で「原発賠償」を巡る議論が紛糾している。今回は、この問題を解決する上での大前提について考えてみたい。
福島第一原子力発電所事故の一次責任が東京電力にあることは論を俟たない。ところが先月、日本経済団体連合会の米倉弘昌会長の口から“暴言”に等しい言葉が飛び出した。
「原子力損害賠償法には大規模な天災や内乱による事故は国が補償するとある。国が全面的に支援しなくてはいけないのは当然だ」「原発は国によって安全基準が定められ、設計・建設されている」と記者会見で述べ、国の責任を強くアピールしたのである。
この発言は、経団連会長ともあろう人物が、その仲間意識(東電の清水正孝社長は経団連副会長)から財界の都合を主張した“不見識”といわざるを得ない。
たしかに原賠法は「原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない」(第三条)と、この第三条並びに第十六条で政府による「援助」を定めている。
つまり財界の“言い分”は、原子力は国の方針に従って推進してきた、原発は国の安全基準に準拠して原子力安全委員会の審査で認められたものを造り、原子力安全・保安院の指導のもとに運転してきた、国の言う通りにやってきたにもかかわらず、想定外の津波でこんなことになったのだから国が責任を負うのが当然だ――というものである。
だが、もしこの理屈で企業が責任を負わないとなれば、製薬会社や航空会社、鉄道会社などが事故を起こしても、安全基準を定める国の責任ばかりが問われることになる。経団連はCSR(Corporate Social Responsibility/企業の社会的責任)を声高に叫んでいるが、それが虚構にすぎないことが図らずも露呈した。
一方の政府は、東電の支払い能力を超えた部分について支援する意向を早くから打ち出している。聞こえはいいが、そのツケを納税者である国民に回すことへの熟慮や躊躇が政府からは微塵も感じられない。
※週刊ポスト2011年5月20日号