地震から3週間後に避難所を訪ね、初めて直接被災者の声を聞いた菅首相。復興策も政治主導によるリーダーシップどころか、対策本部の乱立で混乱している。
1999年に発生した台湾大地震で、当時総統だった李登輝氏は、毎日のように被災地を訪ね、国民の声に耳を傾け続けた。李登輝氏に国のリーダーのあり方を聞いた。
* * *
李登輝氏が台湾総統だった1999年9月21日未明、マグニチュード7.3の直下型地震が台湾を襲った。震源の深さが1㎞と浅かったため、放出エネルギーは阪神・淡路大震災の2倍。台湾での20世紀最大の地震だった。
「台湾大地震発生時、私は官邸の書斎にいた。電灯の光が徐々に弱まり、消えたかと思ったら、数秒後に大きな揺れが襲った。
まずはこの目で被災地を見なくては。翌朝、私は飛行機で、震源地の台湾中部にある南投市に向かった。
亀裂が入り盛り上がった道路。倒壊した家屋。それはまさしく、大自然の猛威だった。畏敬の念すら感じたほどだ。
勇気づけられたのは各国からの声だった。多くの国や救援組織がすぐさま援助を申し出てくれたのだ。日本の多くの国会議員は、阪神・淡路大震災で使用した仮設住宅を台湾の被災者のために無償提供するよう、日本政府に働きかけてくれた。
決して私たちは孤独ではない。日本をはじめとする国際社会からの関心と協力が、どれほど私たちの支えになったことだろうか」
日本が派遣した救助隊は、地震当日の夕方に台湾入りし、最も早かった。また隊員数145人は、各国の中で最大規模だった。日本が寄贈した仮設住宅は約1000。10月16日に最初の住宅が完成した。
「今回の震災は、私たちが恩返しする番だと考えた。
しかし交流協会台北事務所(大使館の役割を果たす日本側の窓口)を通したレスキュー隊(中華民国捜救総隊)派遣の意思に対し、残念ながら1日返事を待たされたばかりか、「救助隊への要請はもっと先になる」というつれない返答だった。中国の救助隊派遣表明におもねったというのが真相だろう。
だがわがレスキュー隊は日本政府の対応を待たず、総勢35名が自主的に出発。日本のNPO法人の協力のもと、中国と同日の13日に到着し、岩手で救援活動を行なった。少しは恩返しができただろうか」
※SAPIO2011年5月25日号