庁舎が津波に直撃され、安否不明になっていた町長。一時、1万人が安否不明となった宮城県南三陸町で、奇跡的に生還した佐藤仁町長は今、陣頭指揮を執っている。佐藤市長に震災後にいかに「リーダーシップ」を発揮したのかについて話を聞いた。
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「避難所となっていたベイサイドアリーナに着いて早速、生き残った職員から『避難者が9000名いる』と報告を受けた。
1日3食。つまり毎日3万食を用意するのかって。今度は目の前の現実に途方に暮れた。けれどやるしかない。地域の農家の人たちの協力で1日、1食程度だったけどなんとか炊き出しを行なうことができたが、これで足りるわけがなかった」
そう話す町長自身、被災者である。家族は無事だったが、家は流された。また印刷業を営んでいるが、機械が地震の影響で操業できなくなった。だが、そんな状況でも公務を優先した。
まず、1000名以上の町民が避難していたベイサイドアリーナに災害対策本部を設置。自衛隊が「陸の孤島」と化していた南三陸町へつながる道路を復旧させると同時に大挙してなだれ込んだマスコミの前に進んで登場し、現地の窮状を発信し続けたのだった。その理由について佐藤町長はこう話す。
「以前、新潟中越地震で被災した自治体の首長さんの『自分は震災時にマスコミ対応を誤った。しっかりマスコミ対策しないと大変なことになる』という話を思い出してね」
その成果はすぐに表われた。
「体育館の支援物資が空っぽに近かったのに、翌日には大型トラックが全国からの大量の物資を載せて行列を作っていた。これだけ自分たちのことを思ってくれる人々が日本中にいたのかと本当に嬉しかった」
この出来事はもともと高校球児で、性格的にも、政治家としても「協調性」を重んじてきたという佐藤町長を変えた。「俺しかいない。トップは俺しかいねぇんだ」と、次々と舞い込む難題を即断即決していった。
南三陸町では被災後1週間で主要道路の約8割を復旧させたが、これは佐藤町長が地元の建設業協会に必死に掛け合い、また、自衛隊にお願いした結果だ。
また、遺体の収容が進むにつれ、それでも発見されない行方不明者の家族が、“遺体がわり”に写真や思い出の品を欲した。自衛隊が回収した品をボランティアが修復してくれることになったが、集積所までの足がない。そこで車両を急ぎ確保した。
また、避難所暮らしが続く町民からは一刻も早く仮設住宅を建設してほしいとの要望が上がっていた。
「町には整地する人手も予算もない。町長さんが一生懸命自衛隊に掛け合ってくれて、協力の快諾を得たと聞いています」(南三陸町町民)
一見、強引ともとられかねない手法で次々に処理してゆく様子から「緊張しやすい『あがり性』」の頃の面影はない。
※SAPIO2011年5月25日号