関東大震災で帝都復興の陣頭指揮を執った後藤新平と比較して、今回の震災における菅直人首相には多くの問題点があるとノンフィクション作家の山岡淳一郎氏は指摘する。日本人が過去の震災復興から学ぶべき教訓を氏が解説する。
* * *
菅直人首相の復興対応には、ふたつの重要なことが欠落している。「中心」と「大局観」である。首相肝いりの「復興構想会議」が方向性を検討する一方で、○○本部と名づけられた組織が乱立し、会議は踊る、されど進まず、だ。
もともと全体状況を把握して判断する力が弱いから、中心が定まらない。その間隙をついて官僚の利権争奪が始まる……と、先行きが案じられるなか、ひとりの近代史上の政治家に光が当たっている。関東大震災後の帝都復興を担った「後藤新平」である。
後藤の指揮官らしい行動は、いまでも、いや「政治屋」しかいないいまだからこそ、まぶしく見える。震災後、後藤は、まず「初動」で現代の為政者とは対照的に動いた。
1923年9月1日、関東大震災が発生したとき、海軍出身の山本権兵衛に総理就任の大命(天皇の命令)が下されていた。前日、後藤は、その山本と会談し、内務大臣ポストを提示されたが、薩摩閥で閣僚を固めたがる山本と衝突。入閣を拒絶していた。
そこにマグニチュード7.9の大地震が襲いかかる。東京は80数か所から出火し、一面火の海となった。
後藤は、「もはやすべての行きがかりをなげうって、入閣するほかない」と断を下す。2日早暁、山本を訪ねて内相を引き受け、一刻も早く組閣を、と促した。自ら日銀総裁の井上準之助に会いに行き、口説いて大蔵大臣にすえる。薩派の政治家とも手を携え、大同団結へ突っ走った。
今回の震災でいえば、菅首相が批判覚悟で、東北の事情に精しい小沢一郎を閣僚に抜擢するようなものだ。偶然とはいえ、後藤も小沢も同じ岩手水沢の出身である。小沢に働く場を与えていたら、民主党は結束できただろう。それができないのは人間としての器量の問題だ。
※SAPIO2011年5月25日号