1986年4月26日、旧ソ連・チェルノブイリ原子力発電所第4号炉が爆発、放射能雲がヨーロッパ中を覆った。13万5000人が移住を余儀なくされた原発30km圏内の町や村は、25年後の現在も廃墟と化したままだ。事故直後から現地を取材し続ける、DAYS JAPAN編集長でフォトジャーナリストの広河隆一氏がチェルノブイリの真実をレポートする。
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チェルノブイリ事故当時、タチアナ・ルキナは、原発から4km離れたプリピャチ市の自宅のベランダから、チェルノブイリ原発の火災を見た。そのことを彼女はその後長く悔やむことになった。当時タチアナは妊娠していたのだ。
「なぜ私はおなかの中の赤ちゃんを放射能にさらすようなバカなことをしたのでしょう」と彼女は涙を浮かべながら何度も繰り返す。
事故から3年後、そのときの赤ちゃん、アリョーナには、血液の病気が見つかっていた。事故から23年経ったとき、アリョーナには腫瘍をはじめ、体中にさまざまな病気が見つかっていた。事故処理作業をしていた彼女の父親は、寝たきりになっていた。
ガリーナもまた、プリピャチ市で暮らしていた女性だ。事故直後にバスで避難するとき、生まれたばかりの娘に飲ませる哺乳瓶の口を洗わなかったこと、瓶を開けたままにしていたことを思い出す。後悔しても後悔しきれないのだ。娘は10年後に甲状腺の病気を発症したのである。
事故が1986年4月26日未明の1時23分に起こったとき、最初にチェルノブイリ原発から吐き出されたのは放射性ヨウ素だった。自然界ではヨウ素は海藻などに多く含まれ成長ホルモンを分泌する甲状腺の栄養分となる。
しかし核爆弾や原発事故によって生成される放射性ヨウ素と、栄養になる自然のヨウ素の違いを、人間の体は見分けられない。放射性ヨウ素を体のためにいいものだと錯覚して、積極的に取り込んでしまうのだ。こうして甲状腺が位置するのどが被曝し、数年後にはがんの発生が始まる。
がんが甲状腺にある間に見つかれば、甲状腺を取り除く手術を行い、そのあと毎日薬をのめば、事なきを得る可能性が高い。しかし発見が遅れたら…。がんは体中に転移し、ときには脳までをも侵して命を奪う。そのようにして事故から10年以上あとに、子供たちが次々と亡くなっていったのだ。
事故から10年後、14才のターニャに会ったとき、彼女はもう医師から見放されていた。激しい痛みに悲鳴を上げていた。彼女は発症するまで女優になるのが夢だった。
“いまいちばんほしいものは何?”と私が尋ねると、「モルヒネ」と答えた。14才の少女は、「ほしいものはモルヒネ」と答える残酷な状況に追いやられていた。
しかし病院は痛み止めのモルヒネを与えないという。なぜなら「薬は病気を治すためのもので、その可能性のない子に与える薬はない」と医師はいうのだ。ターニャはその2か月後に死んだ。
◆広河隆一氏の最新刊『暴走する原発 チェルノブイリから福島へ これから起こる本当のこと』(小学館刊)は5月22日発売予定。
※女性セブン2011年5月26日号