「1分1秒でも早く現場へ行け!」
宮城県多賀城駐屯地を拠点にする陸上自衛隊第6師団第22普通科連隊。連隊長の國友昭1等陸佐は、3月11日の大地震発生から1時間半後には、隊員たちに声を張り上げていた。
連隊長は新たに組織した中隊を、塩釜市などそれぞれの担当地域に車で向かわせた。3月11日の24時には、中隊の配置がすべて完了したほどのスピードだった。
さらに、「危機的な状況下では、指揮官の位置が重要になってくる。私たちが最前線にいなければ、何も始まらない」と震災の翌12日から昼は駐屯地と現場、夜は仙台市の災害対策本部に詰めていた。
数日間は「人命救助」だった任務も、だがやがて「行方不明者捜索」に変わっていく。
4月26日、この日もまた、駐屯地に隣接する七ヶ浜町の泥地では、一個小隊が一列になって進んでいく。ヘドロが堆積しているからだろうか、ドブ臭さが充満している。
現場には國友連隊長の姿もあった。部下が「これだけは言わせてください」と声を発した。
「連隊長は、毎日、自ら現場に出て、ご遺体が見つかると、その確認や遺族への報告を買って出ます。辛い役目を全部引き受けているんです。連隊長がかけてくださる言葉に、自分たちは励まされています」
第22普通科連隊では、夜になると必ず、報告会が行なわれる。行方不明者捜索に出た班が、その日起こったことを隊員全員に報告するのだ。
中には、共感するあまり泣き出す隊員もいるという。任務遂行の隊員には、辛い気持ちをはき出させ、他の隊員たちは辛い任務を思いとして共有し合う。現場のメンタル面での負担を軽減するために、連隊長指示の報告会だった。
半数以上を宮城県出身者で占める第22普通科連隊は、「宮城の郷土連隊」という意識が隊員たちの中では強い。
「私たちは、被災者を助ける立場にありながら、自分たちもまた被災者という、複雑な状況にありました。しかし隊員たちは、まず被災者のことを考えた。このことを私は誇りに思います」
國友連隊長の髭は、あれ以来、剃られていない。
「最初は忙しいままに任せて放っておいた髭ですが、思うままに任せない被災者の方のことを思って、剃るのをやめたんです。何かひとつ、少しでもいいから被災者の方と、気持ちを共有したかったんです。髭は、私にとっての“接点”なんです」
誰よりも早く駐屯地に入り、毎日現場に駆けつける。辛いことは全部引き受ける。決して口数は多くないが、國友連隊長はその行動で隊員たちに範を示していた。
※SAPIO2011年5月25日号