「ケニア人の脚力」と「日本人の勤勉さ」を併せ持つ男――そう称えられた男は、なぜ変わってしまったのか。北京五輪男子マラソン金メダリストのサムエル・ワンジル(24)が、母国ケニアの都市・ニャフルルにある自宅の2階バルコニーから転落死した。
事故か自殺かはいまだ定かではないが、海外メディアの報道などによれば、不倫相手とベッドにいるところを妻に目撃され、家から逃げようとして転落したという。
このニュースは、多くの日本の陸上ファンにとって耳を疑うものだった。ワンジルといえば、仙台育英高校からトヨタ自動車九州と、その競技人生のほとんどを日本で過ごし「日本人よりも真面目な努力家」として知られる男だ。
納豆も食べれば、書道大会でも優秀な成績を収め、この国の文化を誰よりどん欲に吸収した。彼の競技に打ち込む真摯な姿と、死をめぐるスキャンダルが、どうしても一致しない。ワンジルと同じくケニア出身で、山梨学院大学で活躍した真也加ステファン氏(38、現・創造学園大学陸上競技部監督)がいう。
「3月の震災直後にも、ワンジルから連絡があったんです。“仙台育英の関係者や、ケニアの選手たちは大丈夫か”と心配していました。彼は“マラソン世界新を出したい”といつもいっていたし、ケニア人も皆その願いは叶うと思っていた」
しかし金メダリストとしての成功は、少しずつ彼を狂わせていた。ワンジルをよく知る陸上関係者がいう。
「金メダルを取った頃、彼にヨーロッパ人のエージェントがついて、彼に良くない噂が出回り始めた。日本の実業団との契約も半ば一方的に破棄し、陸上関係者の間では“カネだけふんだくった”と陰口を叩かれた。
ケニアでも、彼の周りには常にカネ目当ての人々が集まり、自宅に強盗が入ったこともある。そんな中、彼は精神のバランスを少しずつ崩していったようだ。ワンジルが不倫に走ったのも、それが原因かもしれない」
ただし、ケニアは一夫多妻制が現存し不倫自体は問題とされない。しかし、それは若者の間では古い風習になりつつある。「妻との考え方のギャップがもたらした不幸な死」との見方もある。ワンジルは、五輪連覇も確実視されていた。真相は闇の中だが、世界はあまりに大きな才能を失った。
※週刊ポスト2011年6月3日号