ベストセラー『がんばらない』著者で、諏訪中央病院名誉院長の鎌田實氏は、5月の連休中、岩手県釜石市に入った。ここは、824人が死亡し、533人が行方不明だった。住宅の倒壊は3118棟。避難者は2117人にも及び、街には悲しみが溢れていた。以下は、鎌田氏による報告である。
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大震災では津波などによって、老人福祉施設52施設が使用不能になった。災害弱者である施設に入所しているお年寄りの犠牲者が多かった。
一方、たくさんの市民の命を支えた老人福祉施設もあった。その中のひとつ、釜石にある『あいぜんの里』を訪ねた。
3・11の午後、ここには90人のお年寄りの入所者がいた。隣にあるデイサービスの利用者15人が、まず帰れなくなった。
『あいぜんの里』は、丘の上にあったので津波の難を逃れていた。その上、自家発電を持っていたので、電気が点いた。そのわずかな灯りを頼って、近隣の住民200人が避難してきた。老人施設は急きょ、自然発生的な避難所になったのだ。
隣にあった保育園の子どもたちも帰れなくなった。保育士さんたちが子どもたちを連れて避難してきた。子どもたちの家も流され、保護者も迎えにこられなかった。認知症の人を抱えるグループホームも丘の上の施設を目指してやってきていた。
帰れなくなったこの施設の職員50人ほどが泊まることになった。全部で350を超える避難者のために、炊き出しをして食事を出した。しかし、3日もすると米びつは空になった。すると今度は地域の人たちが米を持ち寄って来て、炊き出しに参加した。
救援物資も届きだすと、社会福祉協議会が介護士3人を1チームにして、ボランティアを派遣してくれた。これが凄く助かった、と職員がいう。水の確保、トイレの後処理。介護が必要な人のために、4人部屋を6人で使って、急場をしのいだ。職員やスタッフもまた、被災者だった。それでも必死になってお年寄りや避難民を支えた。
僕が訪ねた5月初旬にデイサービスが再開され、そこに来ていたお年寄りに声をかけてみた。
91歳のチュウジさんは「戦争にも行ったけれど、今回のほうが辛い」という。チュウジさんの家も流されていた。また家が流され、障害がある夫と共に、この施設に逃げ込み、そのまま『あいぜんの里』で暮らしている夫婦もいた。体育館の避難所では夫が生活出来なかったという。
「この施設は優しくて助かっている。でもこの先、仮設住宅に当たらなかったら、どうしよう。私たちは生きていけない」不安はつきないようだ。
85歳のアサイさんの家はお菓子の卸売りをしていた。その店も流された。それでも柔らかな笑みがあった。施設で使うタオルを畳みながらアサイさんが言った。
「なるようにしかならないのです。毎日丁寧に、みんなに感謝して生きていくだけです」
※週刊ポスト2011年6月3日号