今回の東日本大震災では多くの人命が失われた。かつて、われわれ日本人は、このような大震災に遭遇しながら、いかに苛酷な運命に立ち向かって行ったか。作家・井沢元彦氏が論ずる。
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われわれの住んでいる日本は、古くから地震や、それに伴う津波が当たり前だったことは、あらためて述べる必要はないかもしれない。
古くは平安時代の八六九年、三陸沖の海底を震源とした大地震と大津波が起こったことがある。当時の年号を取って貞観地震と呼ぶ。
家屋は倒壊し地割れが起こり大津波が内陸の奥までやってきた。当時の人口規模で千人が溺死した。これは今なら数万人の単位だろう。また、この貞観年間には富士山大噴火(864~866年)も起こっている。これは記録に残る最大の噴火と言われている。
ちょうど都(平安京)では藤原氏の他氏排斥がたけなわで、応天門の変(866年)によって古代豪族大伴氏が没落した頃だ。
日本はまさに地震列島なので、地震や噴火や津波の類いをいちいち紹介していたらそれだけで紙数が埋まってしまうが、歴史上の「有名人」が被災者である大津波と大地震をそれぞれ一つずつ紹介しておこう。
鎌倉の大仏はよく御存じだろう。正式には高徳院の阿弥陀如来像だが、この大仏様も実は大津波の「被災者」だ。
昔の小学唱歌にもあった通り、この大仏は「露座」すなわち大仏殿がなく剥きだしである。それは大仏殿が鎌倉時代の明応年間(1495年あるいは1498年といわれる)に起こった大地震(明応地震)に伴う大津波で流失してしまったからなのだ。
一方、方広寺の大仏というのは御存じないかもしれない。これは権力の絶頂にあった豊臣秀吉が、奈良の大仏(東大寺)より巨大なものを造ってやろうと京の東山に建立したものだ。銅ではなく木製だったが完成直前に大地震(慶長伏見地震)が起こり倒壊してしまった。この時、秀吉も自分の住んでいた伏見城が倒壊し避難している。
実はこの年(1596年)は、九月一日に伊予国(愛媛県)を中心とした大地震が起こり、そのわずか三日後に今度は豊後国(大分県)で大地震が起こり、その翌日に京阪神地方が大地震に見舞われるという、「トリプルパンチ」の年であった。
中小規模のものを含めれば、日本という国は連続地震が決して少なくない国である。
※週刊ポスト2011年6月10日号