【書評】『at プラス 08』(太田出版/1365円/雑誌)
【評者】大塚英志(まんが原作者)
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神戸震災の時、筑紫哲也が「温泉街の湯気が立ちのぼるようだ」とコメントし顰蹙を買った長田区のあたりに今、日中立つと軽い吐き気がする。目に入る風景全てが建築家によって再設計された人工物であることの不快さは学生時代を過ごした筑波の学園都市とも重なる。それは自身に世界を設計する権利と才能があると信じている建築家という人種の不遜さだけが人の生きる場所を支配しているからだ。
そして東北の海岸線が長田区と同じ光景と化すことは後藤新平の持ち上げられ方でも充分予想がつくが、そのことを「予兆」したかのように同誌に掲載された磯崎新の地震直前のインタビューを読むと吐き気どころか「殺意」さえ覚えた。比喩でなく。
磯崎はここで「建築」とは世界そのものの制度設計であり、「国家」を表現することが「都市計画」や「建築」だとうそぶき、ヒトラーの妄想を可視化することを求められた建築家シュペーアに言及し、毛沢東やヒトラーと建築について語りたい気分だと饒舌に語る。それは建築家が長い間隠してきたあからさまな本音だが、この震災前のはしゃぎぶりは地震後に公になった言説の中で最も醜悪なものの一つだ。
地震後の追記に至っては「列島社会の全面的な制度設計」が必要と、当然、主張し、しかし、それを可能にする絶対的な存在は今やない、と語る時、建築家である私たちこそが独裁者を代行する世界設計者たりうるというわかりきった予想通りの本音が語られる。地震後の建築家たちの俺たちの出番だという高揚が伝わってくるではないか。何しろ地震後体調を崩した磯崎は自分の身体が「日本列島の惨状にシミュレートしている」とさえいうのだ。
なるほど「日本」と自身の矮小な自我を同一化させることに熱心なこの国の「国民」には私こそが日本である、と本気で思い始めている磯崎の「妄想」が似つかわしいのだろう。それにしても10年後、いかに醜悪な「日本」や東北が彼の地にあるのか。
※週刊ポスト2011年6月10日号