今回の東日本大震災では多くの人命が失われた。かつて、われわれ日本人は、このような大震災に遭遇しながら、いかに苛酷な運命に立ち向かい克服して行ったか。作家・井沢元彦氏が論ずる。
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日本史上最悪の「トリプルパンチ」つまり三連続地震は、こともあろうにあのペリーが黒船で日本にやって来た一八五三年(嘉永6)の翌年から始まった。
まず安政東海地震(日本年号はまだ嘉永で安政に改元されていないが便宜上こう呼ぶ)だ。いわゆる東海地震の安政版で、マグニチュードは八・四、現在の静岡県にあった駿府城、掛川城は倒壊した。城が倒壊するくらいだから民間の被害はさらに甚大であった。
最大震度は七と推定されている。そしてこの大地震で発生した大津波により、周辺の町や村は壊滅的な打撃を受けた。当時、ロシアのプチャーチンは戦艦ディアナ号で伊豆国下田を訪れていたが、下田の町は壊滅しディアナ号も大破、後に沈没した。これは一八五四年十二月二十三日(以下すべて西暦)の出来事だが、ペリーはこの年の夏まで下田にいたから、もっと早く起こっていればペリー艦隊も大打撃を受け歴史は変わっていたかもしれない。
そして、この安政東海地震のまさに翌日(約32時間後という)に、今度は豊予海峡を震源とするマグニチュード八・四(東海地震と同じ)の大地震が起こった。推定震度は陸上では六だったが、伊予国から土佐国(高知県)にかけて家屋倒壊および火災(ちょうど夕食時だった)により、多くの人命が失われた。もちろん大津波(土佐久礼で16メートル)もあったが、前日の東海地震による津波が警告となって人的被害は比較的少なくて済んだ。
ただし人は避難できても家屋はできないので流失家屋は特に土佐ではなはだしかった。江戸にいた坂本龍馬はこの報を聞き、あわてて緊急帰国したという話がある。
そして、それから一年もたたない一八五五年の十一月十一日、首都の江戸をマグニチュード六・九の地震が襲った。東南海地震に比べてマグニチュードは小さく震度も六だったが、これは人口密集地で起こった直下型地震であった。
発生は夜遅くであったが、深川など下町方面では火災が発生した。埋立地の多い日比谷、大手町、築地、品川といったところでは大名屋敷が崩れ、江戸城も半壊した。江川太郎左衛門が「黒船防ぎ」のため突貫工事で作った台場(砲台島)もかなりの部分が破壊された。死者は四千人を越えたという。この中には家屋倒壊で圧死した、水戸斉昭の腹心藤田東湖もその数に入っている。
つまり、東海地方で大地震が起こり翌日関西がやられ、一年たたないうちに今度は首都が壊滅状態に陥ったということだ。
これを安政三大地震と呼ぶ。
地震のメカニズムについてはまだまだわからないことが多くある。科学者の中には「現時点では有用な地震予知など不可能だ」と考える人もいる。
しかし、そういう科学的視点は別にして、経験則で見てもはっきり言えることは、今後同じようなことがあってもおかしくない、ということだ。
われわれの先祖はこの「トリプルパンチ」のあと、コレラという伝染病に見舞われた。一八五八年から始まった大流行で江戸での死者は十万人という説もある。合わせて幕末の争乱である。幕府の経済政策の失敗から国内はとてつもないインフレに襲われた。
三連続大地震、テロ、戦争、伝染病、超物価高――だが、われわれの先祖は負けなかった。見事に明治維新を成し遂げたのだ。
今度、幕末を題材にした映画やテレビドラマを見る時には、坂本龍馬や西郷隆盛らの活躍だけではなく、その背景にそうした庶民の奮闘があったことを感じて欲しい。これは実際にわれわれの先祖が成し遂げたことで、われわれはその子孫なのである。
※週刊ポスト2011年6月10日号