危機脱出の鍵は大局を掴むこと、そのために必要なのが歴史を学ぶことである。たとえば、どのプロ野球球団にも程度の差こそあれ「最弱」の歴史が必ずある。そこには弱小球団に転落した原因が存在する。
最弱時代を呼び込むパターンの一つが「チームの核となる主力選手の予期せぬ離脱」である。1970年代半ばまではコンスタントに上位をキープしていた南海ホークス(現ソフトバンク)は、1977年に野村克也選手兼監督の電撃解任に伴い、ストッパーの江夏豊、若手有望株で内野手の柏原純一がトレードで放出されてしまう。
チームの柱3人を失った同球団は、1997年まで連続Bクラスの憂き目にあった。
また“鉄腕”稲尾和久、“怪童”中西太を擁し、プロ野球初期の常勝軍団として知られた西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)も、1969年オフの「黒い霧事件」によってエース池永正明を含む3選手が追放。同時にファンの信頼をも失い、1974年までの長期低迷に陥った。
“チームの核”の離脱が与える影響は甚大だ。資金潤沢な球団でもないと、一から選手を育てる必要がある。
この「どん底」の両チームを救ったのは、西武ライオンズ編成・管理部長としてチームを常勝軍団に育てあげ、その後、ダイエーに移り、球団社長として同球団に悲願の優勝をもたらした故・根本陸夫だった。
実質的なGMである根本はスカウティング力を発揮。長期ビジョンを敷き1982~1992年の入団選手の6割が高卒ルーキーだった。西武、ダイエー両球団の代表を歴任し、根本とコンビを組みながら改革を行なった坂井保之はいう。
「ダメなチームが優秀な監督、コーチを揃えたからっていきなり優勝することはありえない。F1でいえば監督はドライバーだけど、優秀な車(選手)が必要だし、各部位に目配せできる優秀な整備士(フロント)がいないと勝てない。根本さんの口癖は『オレは百姓だ。田んぼで稲を作るが、刈り取るのは別の人がやればいい』でね。油まみれになって、チームを整備することに喜びを感じる人でした」
坂井もまた“チーム整備”に長けた球団代表だった。
「西武ではまず選手が野球に専念できる設備を充実させました。球場、寮、バス、医療関係などを整えた上で、次にユニフォームや球団キャラクターを一新してイメージアップを図った。それをした上でいい選手をよべば、3~4年で優勝争いのできる戦力を整えられる。そして最後に必要なのが野球を知っている監督です」
球団経営には順序があると語る坂井は、球団代表4年目に広岡達朗を監督に迎えて見事、日本一に輝いた。
※週刊ポスト2011年6月17日号