3.11東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手・宮城・福島の3県。そこで暮らしてきた人たちはもとより、彼の地を故郷にもつ人々の心の傷もまだまだ癒えることはない。宮城県石巻市出身のコラムニスト・木村和久さんが、縁のある人々の安否確認など、震災当時の状況をひとつひとつ掘り起こしていく。
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私の故郷、石巻は大震災で壊滅的な被害を受けました。震災当日は、親戚の安否確認ができないことにいら立ち、悶々と眠れぬ夜を過ごしました。連絡網は一切途絶え、押し寄せる津波のニュース映像に、ただ恐れおののくばかりだったのです。
なによりいちばん心配だったのは、実家に住む大正生まれの叔母夫婦でした。足腰も弱っているうえ、近辺で津波が2階まで押し寄せたニュースを聞き、正直ダメかと諦めかけていました。眠れない日々が続きます。
地元にいる兄と数日後に連絡がつき、近くなんだから叔母の家を見てこいと大喧嘩にもなりました。しかし、実際のところ、兄も被災者。しかもガソリン不足で身動きが取れないのです。
ようやく5日後、私がインターネットで捜索を出していたのを手がかりに叔母の孫から連絡が来て、無事が確認できました。そのときは陳腐な表現ですが、涙がとめどなく溢れて止まりませんでした。恥ずかしい話、この年まで“涙がとめどなく溢れる”といった経験はなく、それは映画とか小説の世界での表現だと思っておりました。ところが今回の大震災で、私自身、涙が止まらなくなったことが3回もありました。
最初は叔母の無事を確認したこのときでした。2回目は震災数日後、新聞で亡くなったかたの名簿を目にしたときです。東京の新聞を読んでいるのに、1面全部が地元のかたの名前ばかりです。青森県、岩手県と読み進み、宮城県の部分がやたら大きく紙面の8割を占めます。その大きなスペースを詳細に見ていくと、石巻市、石巻市、石巻市…と、延々地元のかたばかりです。やや新聞から目を離し、石巻市が紙面のほとんどを占めていると気づいたとき、愕然としました。なんで私の故郷ばかりなんだ! 同時にとめどなく涙が溢れてきて、その涙をぬぐいながら、親戚や同級生の名はないか、必死に探しました。
そして3回目に涙したのは、生徒の7割が流された大川小学校の悲劇です。亡くなった子供の頬についた泥が取れないといって、母親が手でなく舐めて取ってあげたと報道されていました。こうして書いている段階でも、また泣けてきます。
しかも、大川小学校では先生の多くも亡くなっています。震災当日、校長不在ゆえ、教頭先生が指揮を執りました。実はその教頭は私の高校の先輩で、尊敬する人です。しかし避難誘導に間違いがあったのか、多くのかたが亡くなりました。あえてそれを口にはしないものの、残された家族にはいまでもやり場のない怒り、悲しみが充満しています。その教頭先生本人も、亡くなっているのに、死してなお責められるそのつらさ…です。
※女性セブン2011年6月23日号