“西の名門”灘校にかつて「伝説の国語教師」がいた。橋本武、御年98歳。文庫本『銀の匙』(中勘助・著)をゆっくりと読む。教科書は一切使わない。そんな前例なき授業は、生徒の学ぶ力を育み、私立高として初の「東大合格者数日本一」を達成するに至る。単に進学実績が向上しただけではない。芥川賞作家、東京大学総長、日弁連事務総長……“正解”なき実社会を逞しく生き抜く、数多の人材がそこから巣立っていった。一体『銀の匙』とはどんな本なのだろうか?
* * *
「銀の匙」とは生まれつき虚弱体質だった主人公に、かかりつけの漢方医が薬を入れる際に用いた匙のことである。
この物語は大人になった「私」が茶箪笥の引き出しから小匙を見つけ、思い出を回想する形で始まる。著者・中勘助の自伝風の小説といわれる。
明治時代中期、体を壊した母に代わり、優しい伯母に育てられた「私」の幼少期は、遊び仲間すら伯母が探すほど人見知りで引っ込み思案だった。
しかし、小学校へあがる頃には、大人しく身体の弱い「お国さん」や姉さん肌の「お蕙ちゃん」との交遊を通じ、活発になっていく。お蕙ちゃんから〈びりっこけなんぞと遊ばない〉と言われたときには、伯母や姉の力を借り、文字や算術を1つずつ覚える。
それまで下位だった学校の成績は、遂には学校で2番になった。お蕙ちゃんに対する感情は、淡い初恋でもあったが、彼女の引っ越しで、あっけなくも寂しい別れとなった。
時は移ろい、世は日清戦争開戦――高等小学校に進んだ「私」は、「大和魂」ばかり押し付ける教師に反発したり、修身(道徳)の時間に「なぜ孝行しなければならないんです」と堂々と教師と渡り合ったりするほど、強く感受性豊かな青年に成長していく。
16歳のときには、旅行帰りに故郷へ帰っていた伯母と再会を果たす。すっかり年老いて眼が見えなくなっていた伯母を見て、〈これが見おさめだな〉と胸がつまる。その予感通り、やがて伯母は亡くなった――。
17歳の夏。たまたま訪れた友達の別荘で、美しい友達の姉と出会う。面と向かうと挨拶もできないほど恋心を抱くのだがやはり別れは突然やってきた。
〈私は花にかくれてとめどもなく流れる涙をふいた〉
青春時代の切ない描写のこのシーンで、物語は終わる。
※週刊ポスト2011年6月24日号