東大に多数の人材を送り込む西の名門・灘校。同校には橋本武という名教師がかつて在籍し、文庫本『銀の匙』をゆっくりと読む授業を行なっていた。教科書は一切使わない。そんな前例なき授業は、生徒の学ぶ力を育み、数多の人材がそこから巣立っていった。一見「回り道」にも見える「文庫本を読む」という授業だが、ここには重要な意図があった。橋本氏が語る。
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銀の匙という、薄い文庫本に収まる作品をもとに、中学3年間の国語の授業を行ないました。一つの作品だけを扱うので、教えることが偏らないようにする必要がありました。
そこで、横道に逸れることにしたのです。一つの言葉から、世界を広げていく。これこそが狙いでした。暗記で得た知識は、受験終了が終われば役目を終えますが、興味、好奇心から得たものは一生の財産になります。例えば、銀の匙には、駄菓子の描写が出てきます。
〈きんか糖、きんぎょく糖、てんもん糖、微塵棒。竹の羊羹は口にくわえると青竹の匂がしてつるりと舌のうえにすべりだす〉
でも、今まで勉強ばかりしていた生徒たちのなかには、駄菓子を食べたことのない子もいた。そこで生徒には、書かれている通り飴や羊羹を配り、食べさせてあげました。
すると、教室の間で「共感」が生まれるんです。生徒たちが胸を熱くする瞬間です。
そうやって主人公の見聞や感情を追体験していくというのが、私の授業の柱でした。
あえて捨てる、あえて徹する、あえて遠回りする――なんでこんな授業が成立したかと言えば、生徒たちが、遊ぶ感覚で学んだからです。遊びだから、参加しなかったら面白くない。遊びながら考えていくことで、興味が広がる。疑問が出てくる。解決しようと自分で考える。
明るく、楽しく。でも徹底的に。
どうしてかわからなくても、わからないものはわからんままで残しておいていい。後になって何かの時に、わかることがありますから。
私は“学ぶ力の背骨”を身につけてほしかったんです。国語力のあるなしで、他の教科の理解度も違う。深く踏み込んで、テーマの真髄に近づいていこうとする力こそが国語力です。
それは“生きる力”と置き換えてもいい。言葉の使い方を教えることだけが国語の授業ではありません。今の、他の学校の先生も、どんどんこういうことをやったらいいと思います。大切なのは脱線する「ゆとり」なんです。ゆとりは目的ではない、結果です。結果としてゆとりを持てる教育こそ、真の「ゆとり教育」ではないでしょうか。
※週刊ポスト2011年6月24日号