『仁義なき戦い』――いわずとしれたやくざ映画の人気シリーズは今年で誕生38年。偽善と欺瞞に満ちた現代だからこそ、今こそ観てみたい作品だ。同作は700枚にわたる広島やくざ・美能組元組長の美能幸三による手記が基になっている。
そして、結果的に大ヒットしたわけだが製作した東映は、初めから当たると読んだわけではなかった。年間20本以上作るうちの1本にすぎなかった。併映は『女番長(スケバン)』。それまでのやくざ映画は高倉健を頂点とするシリーズ『日本侠客伝』などの、様式美を謳うものだった。だが、ほぼ10年に及んだこの〈やくざ美〉に翳りが表われ始め、高倉健の時代は終わった。
高倉健は、東映を去る。そこに、〈やくざ美〉とは遠くかけ離れた前出・美能のこの手記に、出身地・広島弁丸だしで周囲に罵詈雑言をあびせる社長・岡田茂が飛びついた。岡田は、「大衆に向けた文化は善良はだめだ、不良性を持て」との強い哲学を持っていた。「これを東映バーバリズムと呼ぶ」といった。
この風土に『仁義なき戦い』の花が咲いた。
高倉健のあとは菅原文太にしようと、会社は考えた。脚本に『日本暴力団 殺しの盃』の笠原和夫、監督に『人斬り与太 狂犬三兄弟』の深作欣二。この脚本家と監督は仲が悪かった。会社に説得されて嫌々組んだ。菅原文太の役は初め、渡哲也が演ることになっていた。また金子信雄が演じた山守役は、三國連太郎の予定だった。それぞれひっくり返った。初めから危うい予兆に満ちていた。
だが作りあげた途端、いきさつを忘れ、みなで喝采した。以降、笠原、深作は名コンビとなる。
東映はもとは、東急が経営する映画館だった。のちに映画製作に乗りだしたが、松竹、大映、東宝の後続であるために戦前の〈満洲映画協会〉から〈左翼〉まで偏らない人脈を多用した。
岡田はいった。「左翼も右翼も政治も関係あるかっ。わしらは大日本映画党だっ」
やがて絢爛とした「時代劇」「任侠」の王国を成し、全共闘の終焉とともに、『仁義なき戦い』に行き着いた。
いままたこの映画が熱い喝采をあびているのは、東日本大震災で家族の絆、人のつながりを渇望するようになった時代とリンクする。なめらかな合理と「稀薄」な関係に寄りそってきた日本人はいま、相反する垢抜けないざらざらとした「濃密」を欲し始めた。
〈ゼロ号〉の次の〈1号試写〉は田岡一雄・山口組3代目組長が鑑賞した。「広島の若いもんがよう黙っとる」――こう感想を漏らした。
※週刊ポスト2011年7月8日号