「おい、見ろ、この天気。この新緑。ちょっと行けば瓦礫だけど、しゃーねーな、生きていくしかないよな」
東日本大震災から100日を経て、岩手県立大船渡東高校の国語教諭・工藤幸男さん(56)は教壇に立ち、生徒を前にこう話す。
陸前高田にあった工藤さんの自宅は津波で流され、3人の息子のうち、自宅にいた次男の佳祐さん(20)は遺体で見つかった。佳祐さんと車で逃げたはずの妻・由美子さん(53)はまだ行方不明のままだ。どこかで踏ん切りをつけなければいけないと、工藤さんは、このほど妻の死亡届を出すことを決めた。
3月末から教員宿舎で、無事だった長男の朋祐さん(23)、高校に進学した三男の倫佑さん(15)と暮らす工藤さんは、震災当日から3月30日まで、避難所の高田第一中学校で暮らした。その間、工藤さんは持っていたノートに日々のできごとを綴り続けた。
400字詰め原稿用紙94枚に清書された工藤さんの手記に、家族への思いとともに頻繁に出てくるのが、食事と排泄の問題だ。当初の食事は、1日2食。小さなおにぎり1個とカップで配られるみそ汁。菓子パンにカップラーメン。歯ブラシも楊枝もなく、歯にはさまった食べ物を広げたクリップで除去していたという。
三月十五日(火) 四日目。
<このあたりで、うんこの話を書いておこう。一日目の朝、パワーショベルで、横に二列やや深めの穴を掘り、それぞれの穴の上に二枚の長い板を置く。その上に屋根のない四枚の板囲いしたものを乗せる。四枚のうち一枚は、戸びらになっている。これが女子用そして“大”用。男子用の“小”は、その辺のみぞだ。>
<避難所に来て、トイレの歴史が一気に五十年逆もどりした。穴にわたした二枚の板の上でうんこをする。まだ、だれもろくなものを口にしていないから、みんなほとんどうんこらしいものをしていない。>
<妻も二男もいない家でうんこのついた尻のままで、風呂にも入れず、何日も何晩もすごす。被災し、家を失うとはこういうことなのだ。>
三月十六日(水) 五日目。
<三男、日ごとにたくましくなっている。トイレも、工事現場型のポータブルのほかに、例の屋根無し板囲いのほうも使ったという。ウォシュレット世代も、食えば出る。心は悲しみ一杯でも、食う限り人は泣きながらでもうんこをするのだ。それが生きているということだ。>
※女性セブン2011年7月14日号