裏切りと報復の連鎖。画面からほとばしる殺意。このフィルムには全登場人物の血潮が焼き付いている。誕生から38年、いま再び注目を集めつつある『仁義なき戦い』。役を変え、3度出演したシリーズの生き証人・松方弘樹が、当時の思い出を語った。
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撮影が終わるのは夜10時、11時。それから木屋町の飲み屋『キンコンカン』貸し切って毎晩飲んだ飲んだ。ぼくは30歳、監督、文太さんは40そこそこ。みんな若い。なんでそんなに徹夜で飲むか。翌日の撮影に、目が充血しているのが欲しいんですよ。『寝たらおまえ、目が青くなるだろ、きれいになるだろ。そりゃ駄目だ』という監督からして目ぇ真っ赤ですから。宍戸錠さんなんか、わけわかんなくなる。酔っぱらったまんま撮影に入って、本当にグラス握りつぶして血だらけになったりね。「はい、カット!」「はい、救急車」
飲んで演技の話? そんなバカはひとりもおらんです。監督さん以下、みんな無頼だったですよ。
ぼくはたまたま近衛十四郎という大きな看板の家に生まれましたが、あの時代、みんな、なんで役者になったか。洋モクをかっこよく喫いたい。洋酒を飲みたい。高級外車に乗りたい。それからいい女。それをせしめるために頑張ろうとしたんですよ。
毎日、マンガみたいでした。ぼくだけじゃないですよ。ある時に、マイトガイ・小林旭さん。銀座の料亭で、ぼくと北大路欣也で、対談かなにかで待ってた。待てど暮らせど来ない。2時間経って、甲高い声で「ごめん」って。
銀座に来る途中、どっかの店の前でいい車を見かけた。どうしても欲しくなって持ち主を捜して交渉するのに時間がかかってごめんねって。
ぼくの映画のギャラ、10万円の時代です。その車550万円。ぼくら2人は縮こまっちゃって、対談なんかになるわけない(笑い)。
日本映画のピークは昭和29年から3年間で、そこから徐々に落ち、もうその頃は斜陽産業といわれていました。それまでの片岡千恵蔵さんや、市川右太衛門さんの作品なんかは、予算というものがなかった。上限なし。使っただけが、予算。ぼくは昭和34年、東映の大泉撮影所の近所のアパートの2DK7800円に住んだ。当時大卒の月給が1万円。ぼくは映画1本出て10万円だった。斜陽といわれ始めてもまだ、カネはまわっていたんです。
それから13年後に『仁義なき戦い』に出会います。遊び歩いたりなんだりで、もうひとつ仕事に根性が入ってない、そんな年齢でした。これではいかん、腹を据えて仕事に取り組もうと思ったのが『仁義なき戦い』でした。
※週刊ポスト2011年7月8日号