4月11日の発足から2か月半、12回の会議と被災3県にたった1度ずつの現地視察で作ったものだから、こんな程度なのも当然か。
6月25日に発表された東日本大震災復興構想会議の答申でわかったのは、菅首相肝煎りりの同会議が「無駄飯食い」だったことだけだ。
「前文」の一行目から被災者は脱力感に襲われた。
〈破壊は前ぶれもなくやってきた〉
そして、こう続く。
〈平成23年(2011年)3月11日午後2時46分のこと。大地はゆれ、海はうねり、人々は逃げまどった。地震と津波との二段階にわたる波状攻撃の前に、この国の形状と景観は大きくゆがんだ。
そして続けて第三の崩落がこの国を襲う。言うまでもない、原発事故だ。一瞬の恐怖が去った後に、収束の機をもたぬ恐怖が訪れる。かつてない事態の発生だ。かくてこの国の「戦後」をずっと支えていた“何か”が、音をたてて崩れ落ちた。〉
この自己陶酔に満ち満ちたキモチ悪い前文を書いたのは、五百旗頭真(いおきべ・まこと)・議長と御厨貴(みくりや・たかし)・議長代理だったという。
内閣府のスタッフが明かす。
「草案を書いたのが御厨さんで、五百旗頭さんが手を入れた。御厨さんは草案を作った後に先輩学者の梅原猛・名誉議長に目を通してもらったそうで、“梅原さんから誉められたよ”と喜んでいました」
※週刊ポスト2011年7月15日号