そんなに昭和30年代の生活が理想的だろうか。そんなに風力・太陽光発電はいいことずくめだろうか。原発停止と代替エネルギーをめぐる新聞報道は、客観性を失った単なるアジテーションビラに成り下がっているようにみえる。そんな現状をコラムニストの勝谷誠彦氏を分析する。
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昔から新聞はインテリが作ってヤクザが売ると言われていた。私はもう一歩進んで、頭は革新を気取って左に向いているのに、手は右の方に差し出してこの国の利権構造からカネをせしめているのが新聞だと理解している。
東京電力がヘタ打った上に、憲政史上いや日本国史上稀な異常人が首相をやっているために、この国は当座の節電と今後のエネルギー構造の転換を余儀なくされている。談合して付和雷同する大マスコミは先日までの電力会社の広告の山はどこへ行ったのかと思うほど、このふたつのことに熱心になりはじめた。しかし、その振る舞いはやはりこれまでと同様に、きわめて怪しく卑しいのである。
長年の朝日新聞ウォッチャーとして、その紙面をチェックしていこう。まずは「節電」である。原発事故からまだ1か月の4月18日付『天声人語』はこう書いた。
〈「かかあ天下」をもじった「かかあ電化」なる言葉が1955(昭和30)年ごろに流布したそうだ〉と当時の電気状況を振り返りつつ〈電力不足の夏を案じつつ、空調一辺倒で影の薄かった「消夏法」を思い巡らすのはどこか楽しくもある〉〈眉間にシワより、目尻にシワで対処する方が、創意も工夫も湧くだろう〉と説く。
つまり、気合と根性で昭和30年代の生活に帰れというのだ。また2か月後の6月22日付には〈思えばほんの少し前だ。テレビのチャンネルをカチャカチャ回していた頃、家族は一つのこたつに足を入れていた〉。これまた精神論の懐古主義である。
昨年の猛暑での熱中症の死者は気の毒だが天災の犠牲者であった。しかし今年のそれは違うと私は主張している。無為無策の東電や菅直人による「人災」であり「殺人」なのだ。
ところが朝日新聞をはじめとする大マスコミのその点への批判や反省はほとんどない。「国策」としての節電にもろ手を挙げて賛成するばかりだ。たとえば節電にもメリハリがあってしかるべきだろう。しかし大マスコミは驚くほどそのことを主張しない。ただ国策としての節電に大声で賛成するばかりなのだ。
この構図は驚くほど戦前に似ている。「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」。結局のところお上が進める国策には抗わないのだ。なぜならオノレも記者クラブを通じて利権構造の中にどっぷりと浸かっているからである。冒頭に書いた「手を右の方に差し出して利権構造からカネをせしめる」ためにはそうせざるを得ないのだろう。
※SAPIO 2011年8月3日号