いったん退陣表明したくせに、ズルズルと宰相の座に居座り続け、鳴り物入りで抜擢した復興相の暴言辞任でも責任を取らない“あの人”を、なぜ大メディアは許してしまうのか。政治評論家の森田実氏は、菅首相を始めとする情けない政治家たちを甘やかしてきた新聞、テレビの責任は重いと指摘する。
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なぜ、新聞、テレビなどの大マスコミは菅政権にこれほど甘いのか。
結論から言えば、特に東京に本社を構えるテレビや新聞各社が、横並びの政府御用報道機関に成り下がっているからである。
そもそも、大新聞社の社屋がある土地はほとんどが政府から払い下げられたもので、大新聞社はその土地を使って不動産業を営み、経営を支えている。
過去において、新聞の全国一律定価販売などを巡り、新聞社への独占禁止法の適用問題が表面化した時、各紙は一斉に政権攻撃を強めるが、適用見送りになると、一気に攻撃が沈静化するという茶番劇を、私は何度も見せつけられてきた。
要するに、これら大新聞社は、一見すると政権に対して批判がましいことを言っているようでも、実は駆け引きのための揺さぶりをしているに過ぎないのだ。国から放送免許をもらっているテレビ局も事情は似たりよったりである。
かつてマスコミは司法、立法、行政を監視する「第四の権力」と言われたものだが、今や「第一の権力」と言っても過言でない巨大な力を持つようになっている。
その典型が『読売新聞』だ。同紙は6月3日付社説で、こう書いた。
〈大連立によって国難に立ち向かい、日本再生の具体像を提示すべきだ〉
次の衆議院選挙まで約2年。民主党と自民党が連立政権を組めるわけはないのに、読売は自分が政治を動かす権力者になったつもりで大連立を声高に叫んでいるのだ。2007年の大連立騒動の時もそうだったが、メディアとして傲慢と言うほかない。
かつての自民党政権と官僚の蜜月時代には、メディアの力はそれほどでもなかったように思う。しかし、小泉政権が郵政改革を断行するために「抵抗勢力」と名指しした族議員を排除する過程で、メディアと政治権力は「反官僚同盟」とも言うべき関係を結ぶに至った。
自民党から政権を受け継いだ民主党も「政治主導」の名の下に、過剰なまでの官僚排除を打ち出す一方、メディアも官僚を叩くことで自らの相対的地位を高めていった。その結果、大手メディアに「官僚を叩けば受ける」という安直な報道姿勢が目立つようになったのだ。
そうした報道姿勢の弊害は、今回の震災報道にも表われている。実際に現地を見れば分かるが、今、被災地に欠けているのは「復興に向けたカネ」と「中央政府の存在感」である。これらは、内閣が行政の担当者である官僚に仕事をさせることで、初めて実効性が担保される。しかし官僚を排除した「政治主導」を掲げてきた菅内閣は、官僚を全く使いこなせていない。こうした問題を追及している大マスコミを私は知らない。
さらに言えば原発事故のすべての責任を東電に押し付けている菅政権の姿勢に疑問を呈する報道もほとんどない。
私の知る限り、6月24日付『東京新聞』で、民主党の山口壮衆院議員がインタビューに答え、政府の原発事故対応の問題点として「政府が責任を持って解決する気迫が足りない」「統合本部が東電にあることもおかしい」と言っているぐらいだ。
3.11直後から「東日本大震災への対応のために、一時、菅政権への批判を控える」といった風潮が一部のメディアにあったのは確かである。しかし私は、政治家やジャーナリストのそんな「配慮」は、百害あって一利なしと考える。
政治指導者はもちろん、マスコミ人も物事の「是非」を曖昧にしてはならない。批判を忘れたら民主主義は成り立たないからだ。批判精神を捨てたマスコミは有害である。
※SAPIO 2011年8月3日号