【書評】『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸著/講談社現代新書/882円)
【評者】関川夏央(作家)
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社会学・宗教学の橋爪大三郎と社会学・哲学の大澤真幸、ふたりの対談である。
だが役割分担があって、十歳下の大澤が読者になりかわる。わかっていることも、あえて橋爪に聞く。ときに、冒涜ととられかねない質問さえ発するのは、日本人が西欧型近代の根っこであるキリスト教を「わかっていない度合い」のトップだからだ。
日本は異民族に征服されたことが事実上ない。だから「自然と人間は調和し、自然の背後にいるさまざまな神を拝んでいれば」よかった。「これほど幸運な場所は、世界的にみても、そう多くない」
人間的というより人間同然の日本のカミガミと一神教のGodは、まったく異質だ。宇宙も人間もつくった全能のGodは、ときどき理由なく怒る。Godはとにかく「怖い」のである。
橋爪はいう。「キリスト教徒が「Godを信じるのは安全保障のためなんです。Godが素晴らしいことを言っているから信じるんじゃなくて、(怖いから)自分たちの安全のために信じる」
おなじ一神教でも、ユダヤ教、イスラム教と違い、キリスト教は「原罪」を発想した。「人間そのものが間違った存在であることを、原罪という」
そうか。人間は間違った存在だと考えるのか。
仏教も多神教ではない。ブッダは覚っているが、神々は覚っていないから、価値は低い。「覚り」とは「人間が宇宙をどう理解するかという問題であって、神々の出番はないんです」
一方儒教は、政治家のありかたを重視する。いわば政治学・経済学そのもので、そこに「神秘的なところは少しもない」。ゆえに神はいない。
カミガミが幸う日本は、「世界の標準」からはずれているから幸福、同時に孤独なのだ。
現代を代表する二知性の問答はスリリング、かつ娯楽的である。キリスト教に興味があろうがなかろうが、この本はゼッタイ読んだ方がよい。
※週刊ポスト2011年8月5日号