「ちょうど地震や火事で、家の外装が剥がれたときに、家の構造が露出するように、危機的なときにはじめてシステムの基本構造はあらわになる」「おそらくあと数年のうちに、新聞やテレビという既成のメディアは深刻な危機に遭遇するでしょう」――こう語るのは、ベストセラー『街場のメディア論』(光文社新書)で現代日本のマスコミの本質的な限界を“予言”した神戸女学院大学名誉教授・内田樹氏だ。そんな同氏が、震災後のテレビ・新聞報道の問題点を論じる。
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最近のマスコミについての私見を述べよというのが編集部からの依頼ですが、実は僕はもう何年も前からテレビをほとんど見なくなっています。放送されるコンテンツの質は下がる一方で、どの局も同じような内容ばかり流していて識別不能だからです。
本来、メディアはピアー・レビュー、すなわち同じ専門領域をカバーしている同僚(ピアー)による相互的な査定(レビュー)を通じてその質を担保するはずなんですが、テレビではそれが行なわれていない。テレビのレベルを維持するのは、新聞など他のメディアの責任でもあると思うのですが、新聞社はどこも、系列のテレビ局と繋がっているから、番組宣伝を垂れ流すだけで内容的な批判は一切しない。メディア相互の批判がないのだから、劣化するのは当然なんです。
今回の震災・原発事故・政局報道でも、マスコミの自己批評・自己点検能力の劣化が浮き彫りになったと思います。
たとえば、15%節電。電力不足問題について、テレビはまるで市民的常識を代表するような口調で節電を呼びかけていますが、そのテレビ放送自体が莫大な電力を使用していることについては触れない。
テレビ局が制作放送にかける電力も巨大な量ですし、各家庭の受像機も大量の電気を食っている。それほど節電が緊急だと思うなら、テレビ放送そのものを抑制すればいいというアイディアは誰も出さないのですか。「クーラーの設定温度を調整して、なんとか乗り切りましょう」とか被害者面して言うんじゃなくて、各局で話し合って放送しない時間を設定すればいいじゃないですか。
電車を間引き運転したり、駅のエスカレーターを止めたりすれば、ダイレクトに市民生活に影響が出ます。そのせいで生活に支障が出る人はたくさんいる。でも昼間のテレビ放送なんかチャンネルが二つ三つ減ったからと言って、それで市民生活に深刻な支障が出て困る人なんかいないでしょう?
電車やエスカレーターを止めるぐらいだったら、まずテレビを止めればいい。僕が子どもの頃はテレビ放送は朝と夕方以降だけでした。昼間はテストパターンが流れていた。それでいいじゃないですか。午後2時が消費電力のピークだというなら、午後2時前後に交替で放送を自粛すれば、ずいぶん節電になるんじゃないですか。そんなことはできないし、すべきではないという言い分があるならテレビ自身がその理由を視聴者に開示すればいい。
だいたい、国民が今、一番知りたがっている震災や原発についてのニュースは、どの局も官邸、東京電力、原子力安全・保安院といったソースからの情報をそのまま流しているし、その分析解説に局ごとの個性や特色があるわけでもない。みんな横並びじゃないですか。だったら民放とNHKを合わせて6局も7局も要らないじゃないですか。
テレビの人たちは「テレビ局はこんな数要らない」ということをもうわかっていると思います。横並びで、個体識別できないような番組を作っているんですから。みんな横並びで同じ程度に質が悪いから、どこの局から淘汰されるべきかが決められない。
今のテレビの相互模倣を見ていると、群れにまぎれこんで見分けがたくなることで生き延びようとしているようにしか僕には見えない。どんなことがあっても日本国民のために、わが局だけは石に囓りついても放送を続けたいと真剣に考えているテレビ局があるように僕には思えません。
※SAPIO2011年8月3日号