昭和28年(1953)から甲子園球児を迎え入れて59年──。西条(愛媛県)に始まり、高知商、岩倉(愛知県)、帝京、そして早稲田実業とこれまで春夏あわせて7度(そのうち帝京が3度)、優勝校を見届けてきた伝説の旅館が「水明荘」である。
実は、名物女将の白石昌子さんには、一度、インタビューを断られていた。
「現在は取材をお受けしていないんです。いろいろとありましたから」
2006年夏に早稲田実業が優勝したあと、水明荘には取材が殺到した。高校野球を茶化すような内容のバラエティ番組に協力したとして、一度は高校野球連盟から指定宿舎を外されてしまうという経緯があった。以来、取材は受けていないという。
しかし、今回無理を押してでも女将に話を聞きたかったのには理由がある。同じ兵庫県西宮市で高校球児を受け入れているやっこ旅館の女将から、今年の夏の大会をもって、水明荘はその歴史に終止符を打つという話を聞いたからだ。
かつてのように、地方予選を勝ち抜いてきたほとんどの高校が甲子園界隈の旅館に泊まる時代ではない。核家族化が進み、一人一部屋を希望する高校がシティホテルやビジネスホテルへ宿を移していく中、水明荘は東西の東京代表を交代で受け入れてきた。とうとう、水明荘も時代の波には逆らえなかったのか──。
実情は、違った。
75歳になる女将・白石さんが明かす。
「本来ならばね、来年以降も続ける予定でいたんです。でもね、だんだんと体がしんどうなってきて。そして跡取りの息子が今年亡くなったんです。それでいっぺんにやる気をなくしてしまいました……」
「やる気をなくした」という言葉をそのままの意味で受け取ることはできない。悔やみきれない感情を、投げやりな言葉で包み隠そうとしているのは大粒の涙を含んだ女将の眼を見れば明白だった。
「51歳だった息子は甲子園球児のように元気いっぱいでね、高校時代に鎖骨を折って以来、病院には縁のない子だったんです。それがある日突然、『ご飯が食べられへんねん』と。病院に行くと末期の胃がんであることが判明しました。一緒に住んでいたら気がついてあげられたかもしれないのに……。それから2ヶ月後に亡くなりました」
息子さんは、水明荘に宿泊して3度の優勝経験を持つ帝京の大ファンだった。
「帝京が好きで好きでね。助からないことがわかった息子は『棺の中に入れる時に帝京のTシャツを着せて欲しい』と言ってたんです。5月末に亡くなり、帝京のスポーツタオルや帽子、うちわなどを棺に入れ、息子が希望した通り帝京の服を着て旅立ちました。もう少し旅館も続けたかった。去年、畳を入れ替えましたし、広い物干しも作りました。外装もペンキを塗り直していたんですけどね」
毎年同じ気持ちで高校球児たちを送り出してきたが、やはり帝京と前田三夫監督との思い出は尽きない。
「ほんと帝京さんは良い学校です。ふつうは3年生やエースピッチャーの子は、わりと何もせず下級生が雑用係をするんですけどね、帝京さんは上下関係が分け隔て無くて、みんな仲ようやってはります。
そして前田監督も選手にとっては怖い存在でしょうが、私らには楽しい先生です。阪神が弱い時期には、うちら家族は前田監督に『阪神の監督に来て下さい』とお願いしたことがあるんですよ」
息子さんの死後、すぐに前田監督から連絡があった。
「誰にも知らせていなかったのですが、どこからか聞きつけてくださってね。『今年の夏だけはやってもらいたい』と言って下さいました。そして『夏には必ず行きますから』と。帝京さんとの思い出は特にたくさんあります。旅館を閉めるのは……本当は寂しいてしょうがないんです」
今夏も東東京代表となった帝京を受け入れる。旅館の営業は既に予約が入っているために、10月までは続けるという。長い務めを終えたあとは、取り壊されることが決まっている。
「最後の夏を精一杯がんばらせてもらいます」
※週刊ポスト2011年8月12日号