太平洋戦争(大東亜戦争)とは何だったのか。最前線で戦った兵士たちは、あの戦争をどう受け止め、自らの運命をどう捉えていたのか。ノンフィクション作家・門田隆将氏が、太平洋戦争の生き残りを全国に訪ね歩き、未曾有の悲劇を生々しく再現したのが、『太平洋戦争 最後の証言(第一部 零戦・特攻編)』である。「九十歳」の兵士たちは、自分たちがなぜ戦場に向かい、何を守ろうとしたのかを後世に伝えようとしていた。時を超えても変わらない使命感と親兄弟を守るという熱い思い──門田氏がレポートする。
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放たれていた魚雷は見事に命中した。凄まじい衝撃音と共に、その瞬間、土色の水柱が噴き上がった。標的を猛スピードで通過した自分たちの尾翼に何かがパチパチと跳ね返っているような気がした。
「……砂か……」
昭和十六年十二月八日、空母・加賀の二番機として、真珠湾でアメリカの太平洋艦隊の旗艦ウエストバージニアに八百キロの魚雷をぶち込んだ前田武は、抑えがたい興奮と使命を果たした満足感に捉われていた。
二〇一一年五月末、私は 都内の落ち着いた住宅街にその前田を訪ねた。当時二十歳だった前田は現在、九十歳。すっかり白くなった頭髪と深く刻まれた皺は年輪を感じさせるが、それでも実年齢より十歳は若く見えるだろう。
「あの時の感覚は忘れられません。私たちは敵の旗艦を攻撃したのですから」
前田は、自分たちの九七式艦上攻撃機がウエストバージニアを雷撃した時のことをそう静かに振り返った。それは、日米の戦端が開かれた瞬間でもある。
運命の日、十二月八日。前田が電信員として乗る加賀二番機が発艦したのは、午前六時過ぎのことだ。それぞれが褌など下着を新しいものに替えた。朝食には、赤飯と尾頭つきの魚が出たことを前田は記憶している。
「なんというか、まったく腹が据わっちゃった感じだったね。敵艦隊の本拠地へ行って、まして標的が敵の旗艦ですからね。俺たち最精鋭が行くんだ、という誇りも心の中にあったと思う。赤城と加賀は魚雷を十二本ずつ計二十四本、蒼龍と飛龍は八本ずつ計十六本、あわせて四十本の魚雷を持っていた。この四十本をすべて敵にぶち込むのがわれわれ艦攻隊の仕事でした」
前田はその時の心情をそう振り返った。
前田がその目でウエストバージニアを視界に捉えたのは、現地時間の朝八時のことである。無数の曳光弾が機体の左右を通過していた。敵からの攻撃である。
ガンッ! 次の瞬間、バケツを叩いたような音と衝撃が前田たちを包んだ。敵弾が命中したに違いない。だが、機体に異常は感じなかった。前田たちは敵の機銃による必死の反撃をものともせず、海面すれすれをまっすぐ標的に向かった。
魚雷は発射された。前田たちの祈りをこめた魚雷は標的に向かって進んでいく。
急上昇した機体がウエストバージニアの艦橋の前を通過した瞬間、魚雷は命中した。前田が「命中!」と、声を発した。それまで無言だった機内に、「うぉー」という声が挙がった。
凄まじい破裂音と衝撃が機体を襲った。振り返った前田の視界に土色をした水柱が強烈な勢いで噴き上がるのが見えた。その時、尾翼にパチパチと何かが当たっているのを感じた。
砂だった。水深が浅いため、魚雷は海底の土や砂を巻き上げながら爆発していたのである。敵の旗艦は七発もの魚雷を浴びてそのまま沈み、着底した。
※週刊ポスト2011年8月19・26日号