太平洋戦争(大東亜戦争)とは何だったのか。最前線で戦った兵士たちは、あの戦争をどう受け止め、自らの運命をどう捉えていたのか。ノンフィクション作家・門田隆将氏が、太平洋戦争の生き残りを全国に訪ね歩き、未曾有の悲劇を生々しく再現したのが、『太平洋戦争 最後の証言(第一部 零戦・特攻編)』である。「九十歳」の兵士たちは、自分たちがなぜ戦場に向かい、何を守ろうとしたのかを後世に伝えようとしていた。時を超えても変わらない使命感と親兄弟を守るという熱い思い──門田氏がレポートする。
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神風特攻が始まったのは、昭和十九年十月、フィリピン・ルソン島のマバラカット基地でのことである。
この時、二〇一空三一一飛行隊長だった横山岳夫中尉は、今も健在だ。海軍兵学校六十七期にあたる。大正六年七月生まれの横山は今年、九十四歳を迎えた。
大西瀧治郎中将が特攻隊編成を決意し、それを下命した時、横山は自分の三一一飛行隊から特攻隊員を指名し、出撃させている。特攻第一号「敷島隊」の五人の内の一人、十九歳の大黒繁男である。彼は見事突入を果たし、軍神となった。
あれから七十年近い歳月が流れた今、横山は当時のことをどう振り返っているのだろうか。あの時の指揮官の中で唯一、存命している横山のもとを私が訪ねたのは、昨年の夏だった。
福岡の田舎街の古い一軒家に住む横山は、黒いジャージに白の綿シャツを羽織ったいかにも飾らない老人だった。ぎょろっとした、それでいて包み込むような優しい目を持っている。
「ああ、あの時のことですか。そりゃ、忘れられませんよ。とにかく可哀相だった。二〇一空は飛行隊が四隊あるから、特攻に一名ずつ出せとなった。大黒を私の部屋に呼んで、一対一で言いました。大黒は若いのに優秀だったですよ。 “お前、行け”と私、直接言いました」
横山は、特攻指名の時をこう述懐した。お前、行け。すなわち、それは「お前、死ね」と言うことである。
「とにかく状況が状況だから、大西瀧治郎も来てるし、そこで(特攻が)決まった。各飛行隊から一名ずつ出すということになったから、うちとしては、お前やれ。あとからついていくから」
横山はそう言ったのである。その時、大黒はどんな表情をしたのだろうか。
「特別な表情はなかったです。淡々と “はい分かりました”とだけ言いました」
大黒のあの時の顔は忘れられないと横山は言う。
「私はね、何人ぐらい、部下に直接“行け”と言うたのがおったか、非常に疑問に思う。言うのは難しいし、きついですよ。一番末端というのは言われた通りすればいいわけですな。末端の指揮官というのは“やれ”と言わにゃいかん。しかし、途中の人はほとんど関係ない。だから、末端の指揮官はきつかったですよ」
※週刊ポスト2011年8月19・26日号