東日本大震災に関し、様々なレポートが各メディアで行われているが、コラムニスト・木村和久さんは被災地・宮城県石巻市出身。同氏にとって被災地の現状は他人事ではない。そんな同氏が、縁のある人々の安否を自身の足で尋ねながら、震災直後から現在までの状況をレポートする。今回は、中学時代の友人にまつわるレポートだ。
* * *
実家に寄った後、今度は中学校からの友人・平塚隆一郎くんの水産加工場を訪れました。彼は大学卒業後、サラリーマン生活を経て家業の「山徳水産」を継ぎました。「山徳」は石巻では有名な水産加工会社で、彼は昔から坊ちゃん風なとこが女子に人気でした。実に30年ぶりの再会に少し緊張します。髪はさすがに白くなっていましたが、ほかはあまり変わっておらず、若いですね。元気で何よりです。
震災当時、平塚くんは漁港から数百メートルほどの工場にいました。地震そのものはたいした被害もなく、ラインの点検などをして停電の復旧を待ちました。しかしラジオで「大津波警報」が発令され、まさかと思いつつも従業員を全員帰宅させます。
津波が襲って来たのは、地震後1時間弱後だそうです。彼もあわてて帰宅しようとしました。なるべく多くの車を避難させる意味もあり、奥さんとは別の車で移動します。途中で渋滞にはまり、車はみるみるうちに浸水。平塚くんは抜け道を利用して無事、家に戻れましたが、奥さんは渋滞中に津波に襲われ、車から脱出したはいいものの波に数百メートル流され、なんとか知り合いの会社の2階にたどりついたそうです。
電話も通じず、連絡できない平塚くん。奥さんはひょっとして波にのまれたか…。消息がわからなかった丸2日間は生きた心地がしなかったと語ります。
結局、奥さんも無事で何よりでしたが、工場は完全に水没。津波は2階の中腹まで来たそうで1階部分は全壊。その工場を見せてもらいましたが、いまだ瓦礫の山です。
パワーショベルをボランティアの人に導入してもらい、相当数片づけたそうですが、瓦礫は無限に溢れてきます。ここはいまも停電地域で冷凍庫の魚は処分済みですが、それでもハエの数がものすごく、メガネの中にまで勢いよく飛び込んできます。
平塚くんの自宅は無事だったものの、商売は今後はどうするの?と恐る恐る聞いてみたところ、「工場のラインの復旧の見積もりを出させたら数千万円って…冗談じゃないよね。だいたい従業員だって全員解雇したし、一次補正予算なんて雀の涙だし、こっちがどうなるか聞きたいよ。何もできないから、瓦礫のままじゃないかな」
石巻の会社には、従業員が失業保険をもらいやすいように、あえて解雇の形を取るところが多いそうです。ただ唯一、光明が差していることもあります。
「八戸の会社に頼んでOEM生産をしてます。うちのブランド製品を、代理で作ってもらうやり方。八戸が生産で発売元がウチです。それでかろうじて回ってるかな」
※女性セブン2011年8月25日・9月1日号