日本球界の頂点を極めたプロ野球選手・監督といえども、高校球児の時の記憶がその後の野球観を作り出している――。スポーツライター・永谷脩氏が、12球団監督たちの采配のルーツを、彼らの高校球児時代に探った。ここでは楽天・星野監督のケースを紹介する。
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全国出場を果たせなかった監督にも“甲子園の影響”は見える。大会期間中、甲子園組が楽しげに語り合う傍らで、寂しげな表情を見せる楽天監督・星野仙一もその1人だ。
倉敷商(岡山)の星野に甲子園のマウンドは遠かった。最も近づいた1964年夏の予選では、東中国大会決勝で鳥取の米子南と対戦したが、四球とエラーで逆転負けを食らった。
球は速いが制球力に難があった星野。当時は“鉄拳制裁”が当たり前の時代で、1年生の頃から四球を出しては監督にゲンコツを喰らっていたという。そうした経験があるからか、監督・星野は四球を非常に嫌う。永井怜や塩見貴洋ら、若手投手が先頭打者に四球を出すと、怒りに顔をふるわせてすぐに投手交代に動くのも甲子園のトラウマか。
※週刊ポスト2011年9月2日号