東日本大震災後、「週刊少年ジャンプが回し読みできる書店」をはじめとし、書店が「活字の力」で、人々に希望を与えた。だが、希望を与えたのは書店だけではない。混乱極まる被災下で、ローカル誌発行を続けた出版人たちがいる。ノンフィクション作家・稲泉連氏が地元出版社の“奮闘”を描く。
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三月十一日の震災以後、仙台市の書店に新刊書や雑誌が届き始めたのは、四月も中旬になってからのことだった。多くは新聞社や東京の出版社が発行する雑誌・書籍や震災写真集だったが、その中で発売が延期されていた地元出版社の雑誌も並び始めている。
仙台市を中心に六万部を発行するタウン誌『せんだいタウン情報 S-style』(プレスアート)の最新号が、各書店の棚に姿を現したのは四月二十二日。地元出版社では最も早い発売だった。
同誌では「みんなで作ろう街の元気」と題し、飲食店を中心に一三八の店を紹介した。駅前や本町二丁目、国分町──と仙台市内を十のエリアに分け、被災後の店舗で営業を続ける店のスタッフの声を併せて掲載したのである。
この特集記事の取材・制作に当たっては、社内に様々な意見があったとプレスアート・取締役の川元茂は話す。
「そもそもこんな大変な時期に雑誌を出していいのか。そこから話を始めなければならなかったんです」
編集部六名、営業部六名の社員が仙台市若林区の編集部に集まったのは、地震から三日後のことだった。車を乗り合い、徒歩や自転車で会社に集まった彼らは、編集や営業という部署を超えてすぐさま全員参加の会議を開いた。
「もっと被災者寄りのページ作りをした方がいい」
「いや、いまは自粛を避けて、仙台の街の元気な姿を伝えるべきだ」
社員の中には気仙沼市や南相馬市の出身者、家族と連絡が取れないままの者もいた。彼らはそれぞれ言葉にならない思いを抱きながら、次号で自分たちが何をすべきかを真剣に議論した。
「誰に向けて雑誌を作るのか。以前はそれほど気にせずとも良かったこの課題を、三・一一以後は自分たちの頭でしっかりと考えなければならなくなった。そうやってみなが意見を出し合う雰囲気には、雑誌作りの原点を感じさせるものがありました」
同誌は仙台市で三十六年にわたって続く老舗のタウン情報誌であり、そこにはこれまで培われてきた形というものがあった。その意味で同社の若い社員にとって、いくつかの意見が対立する中で「読者」をあらためて想定し、雑誌の内容を一から考え直すことは初めての体験だった。
彼らが出した答えは次のようなものだった。まず『S-style』については従来通りの雑誌のコンセプトを貫く、そして同時に同社が発行するもう一つの雑誌『Kappo』では被災者に寄り添った特集を用意する──。
「僕らの作っているのはエンタメや食べ物といった娯楽の雑誌。この時期に受け入れられるのかという不安は最後までありました」と川元は振り返る。
それでも締切までの二週間、十二人のスタッフはツイッターなどで情報を集め、共有しながら地道に仙台の街を歩いた。
「地震直後から営業しているお店では、炊き出しを無料で行なったところも多かったんです。ところがそうした情報はインターネット以外にはなく、唯一発行されていた紙媒体の地元紙にも載らない種類のものです。だからこそ、市内のどのお店が開いているのか、といった細かな情報を取材し、『うちは元気でやっていますよ』という彼らの姿を伝えることは、この仙台でタウン誌を作っている我々がすべき仕事なのではないかと考えたんですね」
一方、『Kappo』では宮城県沿岸を含む生産者や酒蔵などを取材し、「復興へ 50人の言葉」と題して被災地からの声を伝えた。
同誌の編集長でもある川元にとって強く印象に残ったのは、こうした手探りの雑誌作りの中で、被災後は落ち込んでいた若手スタッフたちの表情が少しずつ明るくなっていったことだ。
「何だかとても懐かしい雰囲気を感じたんです」
※週刊ポスト2011年9月2日号