「角栄の秘蔵っ子」「角栄型の政治手法」としばしば形容される小沢一郎・元民主党代表。だが、本当にそうか。被災県・岩手出身で、新刊『角栄になれなかった男 小沢一郎全研究』(講談社刊)の著者であるジャーナリスト・松田賢弥氏が、似て非なる2人の実像に迫る。
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小沢一郎は1969年12月、27歳で代議士に立候補し、当選している。当時の小沢の選挙区(岩手2区)には、震災で甚大な被害がもたらされた陸前高田や大船渡など三陸沿岸も含まれていた。
しかし、その小沢は震災後の3月末、岩手県盛岡市の県庁で、自身が2007年に知事に担ぎ出した達増拓也と会談しただけで、三陸沖沿岸の被災地に足を運んで、その惨状を目の当たりにした形跡はどこにもない。今、被災地からは小沢への怨嗟の声があがっている。だがそもそも、小沢には望むべくことではないかも知れない。
「角さんは、水系で日本地図を頭に入れていた。山や川や田んぼがどうなっているか、頭に入っているから、被災地で今、何をすればいいかというシナリオが、すぐにできただろう」(角栄の元側近)
小沢に、郷里に執着してやまない角栄のような目線があるとは思えない。小沢はこの6~7年、ほとんど岩手に足を運ばなかった。後援会員らから、小沢がドブ板選挙をやったと聞いたことはない。自分を育ててくれた故郷への思いが感じられないのだ。
角栄は朝7時から、地方から夜行列車で上京してくるたくさんの人々の陳情を聞いた。つとに知られる「目白詣」だ。小沢の住む世田谷区深沢で「深沢詣」という言葉がこれまで語られたことがあっただろうか。集まるのは、自分の子飼いの政治家ばかりである。
故郷に光を当てずして、政治家の仕事はどこにあるのだろうか。角栄はこう言った。
「大衆はバカだとか言って、利益を追っているようなものは必ずつぶれる。(中略)国民の声を聞くというなら、まず陳情のひとつひとつを大事にしなければだめだ」(『田中角栄全記録 密着2年半、2万カットからの報告』山本皓一著、集英社刊)
被災地の苦悩をわがこととできない小沢を角栄の愛弟子と呼べるのだろうか。「政治は数、数は力、力はカネ」と語った角栄から、小沢はその皮相の部分しか会得しなかったのではないか。69歳の政治家でありながら、何より決定的な「情」の部分が備わっていないと、言うしかない。あまりに寂しいことではないか。
※SAPIO2011年9月14日号