東日本大震災からすでに半年近くが経過したにもかかわらず、被災地では瓦礫の撤去すら終わっていない。田中角栄なら今回の未曾有の大災害にどう対処しただろうか。かつて新潟を襲った災害において角栄の対応を目の当たりにした毎日新聞社専門編集委員で、元サンデー毎日編集長の牧太郎氏が論じる。
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田中角栄の出身地新潟は豪雨、豪雪、地震など自然災害に見舞われることが多い。そんな新潟で、かつて「災害に強い男」という異名をとったのが田中角栄である。私がそれを目の当たりにしたのは今から44年前のことだ。1967年(昭和42年)、毎日新聞社に入社した私は新潟支局に配属された。そこからおよそ100日経った夏の終わりのことである。8月26日から29日にかけて山形県南部から新潟県北部が激しい集中豪雨に襲われた。
この「羽越豪雨」(羽越水害とも言う)により、死者は100名を超え、家屋の全半壊は3300棟以上、床上、床下浸水は合わせて8万3000棟以上という甚大な被害が発生した。その多くは新潟県におけるものだ。私が被害の中心地である新潟県岩船郡関川村に取材に行くと、高さ5mもの岩石が田んぼに転がり、土石流の激しさを物語っていた。今回の東日本大震災とは比ぶべくもないが、この「羽越豪雨」も当時としては「想定外」の大災害だったのである。
ちなみに、関川村では1988年から毎年夏に「えちごせきかわ大したもん蛇まつり」という祭りが催されているが、開催日は8月28日、祭りに登場する村民手作りの大蛇の長さは82.8mで、ともにかつて最も激しい豪雨に見舞われた日にちなんでいる。それだけ村にとっては大きな被害だったので、風化させまいとしているのである。
この「羽越豪雨」の被害から立ち上がる時のリーダーが田中角栄だった。当時、角栄は前年暮れに自民党幹事長を辞任し、肩書としては無役だったが、佐藤栄作後の首相の座を狙う、49歳の若き党人派のエースだった。
角栄が「羽越豪雨」からの復旧、復興に向けて行なったことは主に3つあるのだが、それらの対策を見て私が驚いたのは角栄の迅速な行動力、卓抜したアイデア、心憎い官僚操縦術などである。
角栄がリーダーシップを執って行なったことのひとつは、堤防が各地で決壊し、周辺地域に大きな被害をもたらした河川を、二級河川から一級河川へと昇格させたことである。
河川法という法律で河川の等級が定められており、二級河川は都道府県が管理するのに対し、一級河川は国(当時は建設省、現在は国土交通省)が管理するので、より多くの予算をかけた大規模な治水工事を行なうことができる。具体的には、翌年、山形県、新潟県を流れて日本海に注ぐ荒川とその支流を二級から一級へと昇格させた。
かつて角栄は15歳で上京後、専門学校の土木科を卒業し、建設、土木の実務を経験し、その方面の法律にも詳しい。つまり、どうすれば国のお金を動かせるかをよく知っている。そこで、治水工事の予算獲得のため、河川等級の昇格という方法を思いつき、建設省に働きかけたのである。
しかも、角栄のやり方が心憎かったのは、実際は自分のアイデアだったにもかかわらず、表向きは建設省の発想であるかのように装わせ、建設省の役人に“花を持たせた”ことである。役人は気分が悪かろうはずがなく、一生懸命仕事をする。
自分の存在をアピールするパフォーマンスとして役人や企業の幹部を怒鳴りつける政治家とは大違いである。
※SAPIO2011年9月14日号