「ドジョウ」「ノーサイド」ほか、野田首相が発するキーワードに注目が集まっているが、なぜそのレトリックは際立つのか? 作家で五感生活研究所の山下柚実氏は、そのヒントは「駅前留学はNOVA、駅前演説はノダ」にあると見る。
* * *
一見地味な野田佳彦氏がトップ当選し、首相になりました。「スピーチのうまさで勝った」とマスコミではもっぱらの評判。「『私はドジョウです』のフレーズで20票は積み上がった」という分析も聞かれます。
たしかに、他の候補との際だった違いは、野田氏の「面白い演説」でした。正確に言えば、レトリックの多用でした。
「政権運営は雪だるま(雪玉)を転がして坂を上っていくようなもの」
「朝顔がかれんな花を咲かすには何が必要か。前の夜の闇と冷たさだ」
「ドジョウが金魚のまねをしてもしかたない」
「ノーサイドにしましょう、もう」
代表選の短い演説の中で野田氏が使った「暗喩」「隠喩」の数々。キーワードをちょっとピックアップするだけでも、そのレトリック感覚が証明できます。きっと精一杯、松下政経塾で演説の技術をお勉強した成果でしょう。
でも、松下政経塾出身の政治家は山ほどいる。なぜ、野田氏のレトリック感覚が、際立っているのか? そのヒントは、「駅前留学はNOVA、駅前演説はノダ」。野田氏が続けてきた「辻説法」にあると私は見ます。
レトリックとは、いかに言葉を相手に生々しくリアルに感じさせるか、という技術。路上に立って、まったく関係ない人たちに延々と語りかける辻説法。それを24年間も続けるのは、なかなかたいへんなこと。
人の気持ちを惹きつけるには、どんな表現をすればいいのか。どんな言葉を混ぜれば、赤の他人が振り向いてくれるのか--野田氏は試行錯誤を重ね、路上でレトリック感覚を磨いてきたのでは。
野田氏の言語技術は、とりあえず、民主党の代表選ではうまく機能しました。しかし、これからは私たち国民むかって、そのレトリック感覚を発揮しなければならない。
レトリックを、単なる言葉の技術としか思っていなければ、自己満足・自己弁護に成り下がるでしょう。そうではなく、自分自身の考え方・政治哲学を伝えるための、「つなげる道具」としてのレトリックが、果たして野田氏の口から出てくるのかどうか。
「二匹目のドジョウ」はいるのかどうか。「ドジョウ」の次に発せられる言葉に、まずは注目しましょう。