第95代内閣総理大臣となった野田佳彦氏だが、民主党代表選は苦難の連続だった。いち早く代表選の出馬を表明した野田氏だったが、代表選の6日前(8月23日)に「出馬断念」の瀬戸際に立たされた。
その日、花斉会(野田グループ)の会合に集まったのは15人。支援をするはずだった前原誠司氏が出馬の意向を固めたため、凌雲会(前原グループ)の議員が一斉に去っていったからだ。必要な推薦人(20名)さえも足りない。それが野田氏の支持勢力のすべてだった。
野田氏は、松下政経塾の後輩である前原氏に頭を下げて支援を訴えたが、「勝てるんですか」と冷ややかに言い放たれて会談は決裂。
「オレは降りたくない」――選対に戻った野田氏は、陣営幹部に悔し涙を見せた。
だが、そんな野田氏に追い風が吹く。凌雲会に内紛が起きたのだ。
「玄葉(光一郎・前政調会長)さんは当選回数も松下政経塾でも前原さんと同期のライバル。前原氏が前言を翻して出馬したために、このままでは自分にチャンスが回ってこなくなると考え、“自分は当初の予定通りに行動する”と野田支持に転じた」(凌雲会議員)
これでようやく野田陣営にはなんとか出馬できる態勢が整った。
「若乃花と貴乃花のような切ない思いがある」――野田氏は前原氏への“近親憎悪”をそう表現した。そこに政策論争などなく、「予選で前原さんに勝つのが目的だった」(前出の花斉会議員)のだ。
「怨念の政治を超える」と掲げた野田氏だが、皮肉なことに窮地を救ったのは、「あの人が嫌い、この人が嫌い」という怨念だった。
まずは岡田克也・幹事長。本来、退陣する菅政権の執行部は代表選で「中立」の立場を取るのが政界の不文律だが、岡田氏は野田選対の顧問に就任した。政権運営失敗の連帯責任を負う立場だけに、反小沢陣営の候補が菅政権に距離を置いてきた前原氏に一本化されると、人事で干される可能性があったからだ。
代表から引きずり下ろされた菅直人氏も野田支援に回った。慰留を振り切って外相を辞任した前原氏と、その後見人で“菅降ろし”を仕掛けた仙谷由人氏の凌雲会陣営を破るため、菅氏は投票日前夜まで親しい中間派議員に電話を掛けまくった。
「夜の10時頃に、『野田を頼む。前原なんてダメだ。海江田には絶対勝たせるわけにはいかない』と呂律の回らない声でかかってきた。完全に酩酊しているようだった」(電話を受けた議員)
かくして“前原憎し”の菅-岡田-野田連合が完成したが、それでも野田氏の劣勢は変わらなかった。
だが、“敵失”が続く。海江田氏が「小沢氏の党員資格停止処分解除」に言及する大失態を犯したのだ。
「小沢さんは政治資金問題の決着は裁判ではっきりさせるつもりで、その前に処分を解除してほしいと望んでいるわけではない。ましてや代表選の争点にするなど愚の骨頂だ。その意図を理解しない海江田があんな発言をしたから、“処分解除のために海江田を応援している”と争点がずれた。これがバラバラだった野田、鹿野、前原各陣営の結束を強めた」(小沢側近議員)
こうして生まれた2~4位連合により、「無理」だと思われていた野田氏が、あれよあれよと首相の座に就くことになったというわけだ。が、この間に野田氏自らが能動的に動いた形跡は見当たらない。すべては政敵の自滅である。
※週刊ポスト2011年9月16・23日号