【書評】『寒灯』(西村賢太著/新潮社/1365円)
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
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平成の私小説作家、芥川賞受賞後第一作品集である。受賞作「苦役列車」で、友も、恋人も、お金も、将来の展望もなく、その日暮らしをしていた北町貫多が、今回も主人公だ。本作品集は三十代半ばから四十過ぎの話であり、日雇いの身で小説をぽつぽつ書いている。そんな彼も恋人とマンションに愛の巣をかまえるようになる。
芥川賞受賞で経済的にゆとりもでき、いよいよ新しい貫多の姿が見られるのかと思いきや、本書の四編はすべてその前のできごとで、西村ファンには「秋恵シリーズ」として人気の緩やかな連作ものなのだ。
新居生活を始める資金も、じつは秋恵の実家から半ば騙しとった形で、パート勤めの秋恵に食べさせてもらっているありさま。なのに癇症の貫多は心優しい恋人に対して、管理人のあしらい方が悪いの、異臭がわからないのは田舎者だのとイチャモンをつけ、健気な誕生日プレゼントをあしざまに貶し、初めて二人で迎える正月に帰省する彼女の「その了見が慊い」と罵倒する。今回も、せっかく得たなけなしの幸せが指の隙間から零れ落ち、もろい砂のお城がずぶずぶと崩れていくさまを読者は凝視することになる。
一種のDVものゆえ一部の読者には不興を買うかもしれない。しかもこの貫多、どんなに激昂しても自分のことを「ぼく」と呼び、ハンカチを持たずに飛び出すことをはしたなく思い、暮れには風呂場を磨きあげる。妙に折り目正しく行儀がいい無頼というところがまた厄介なのだ。
「根が機嫌伺いにできて」いるくせに「根がムヤミと誇り高く」「根はかなりのインテリ」でもあり、しかし「根がへまにできて」いるうえ「常に手元不如意」、ところが「根がかなりのスタイリスト」で「根が坊ちゃん気質」という矛盾のかたまりの貫多。どっちを向いても、己の根性に首をしめられてしまう。
ああ、このネガティブな快感。落下のストイシズム。それをたっぷり堪能しながら、読者は呟くだろう――これってわたし/おれのことだよね。
※週刊ポスト2011年9月16・23日号