タイでは先日、インラック・チナワット氏が同国で初の女性首相に就任し、話題となった。彼女が、汚職事件で有罪判決を受けて国外逃亡中の元首相・タクシン氏の妹だということは周知のこと。落合信彦氏は、パーティでタイのプミポン国王にお辞儀の挨拶をしないなど、国王への敬愛の情が希薄であるタクシン氏を、かつて君が代斉唱を拒否した菅直人氏になぞらえる。
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タイにおける構図は、日本の天皇と菅直人との関係と相似形ではないか。日本の皇族は、現在はあくまで「象徴」であり、政治的発言などには強い制約がある。とはいえ、国民からの敬愛は深い。だからこそ、明治維新の時も、GHQによる統治の中でも天皇家の存在が重要なものとなったのだ(もちろん、政争や戦争によって王朝が何度も変わってきたタイと、万世一系の日本の天皇家を完全に同列に論じることはできないが、国民から広く敬われる存在である点は共通している)。
ところが、東日本大震災という未曾有の災害発生時に首相の地位にあった菅直人という男は、一言で言えばタクシン以上に不敬な政治家であった。それは彼が首相になる前、君が代を起立して歌うことを拒んだことがあるというエピソードからもよくわかる。
市民活動家から始まり、弱者のためというお題目でバラ撒き政策を打ち出すあたりの政治手法も、タクシンと似ているのが偶然だとは思えない。国王が仮に亡くなれば、タイという国家の未来に暗雲が垂れこめるだろうと(前に)指摘したが、タクシンの代わりはいても、プミポン国王の代わりはいないのだ。それは日本に置き換えても同じである。
特に今回の震災のような国難において、国民は自分たちの行動の規範となる「ロール・モデル」を求める。原発事故への対応一つとっても、今の日本の政治家がロール・モデルとならないのは明らかだ。ロール・モデルどころか、ロトン(=腐った)・モデルと言ったほうがいい。
だとすれば、ロイヤル・ファミリーにこそ、その役割を担ってもらうべきではなかったか。被災地を訪れて被災者たちに声を掛け、国民に向けてメッセージを発信してもらう。そういったことがもっと積極的に行なわれていれば、国民がどれだけ勇気づけられたことか。3月に天皇は国民に向けメッセージを発信した。異例のことだったが、テレビ局はニュースではそれを編集して放送した。
有事に国民が何を求めるのか。危機の中で、国家という存在を意識し、国家に貢献したいという気持ちを喚起することこそが、「有事におけるロイヤル・ファミリーの役割」であり、それは別の人物が代われるものではない。
それなのに菅は、自分が一日も長く首相の地位にいることばかり考え、結果、国民は貴重な時間を無駄にした。総理大臣が代わっても、「ロール・モデル」が存在しないままでは、復興への歩みは遅々として進まない。
※SAPIO2011年9月14日号