震災以後、ベストセラーを記録したのが「震災写真集」である。全国の書店には大手新聞社から刊行された写真集が平積みされたが、特に被災地で需要が高かったのは地元新聞社から出版されたものだった。ノンフィクション作家の稲泉連氏がベストセラー誕生までを報告する。
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三月三一日の朝、河北新報出版センターに勤める水戸智子は、鳴り続ける電話の対応に追われていた。
同社が四月八日に出版する報道写真集『巨大津波が襲った 3・11大震災』の社告を、「河北新報」に掲載したのは前日のことだった。
発売以来、現在もレジや店の入口近くに必ず平積みにされている本書は、震災後の書店の売り上げを支える報道写真集の中でいち早く発売された一冊だ。よってある程度の問い合わせがあるとは予想していたが、「発売の一週間前からこれほどの反響があるとは思ってもいませんでした」と彼女は言う。
この日、出社したときには、彼女の働く営業部の電話がすでに鳴り続けていた。受話器をとると、「今朝の新聞を見たのですが……」との声が早速聞こえてきた。その後も予約を求める電話がなりやまず、多くは被災地からのものでもあったそうだ。
出版センターの電話は二回線しかない。通話中になっても何度もかけ直し、問い合わせを続けている被災地の読者のことを、彼女は思わずにはいられなかった。
「切った先からかかってくるんです。そんな経験は初めてのことでした。結局、取次、新聞の販売店、個人の方への直送と振り分けていくと、初版の三万部は二日で行き先が全て決まってしまいました」
四月八日の発売後、出版部長の阿部進は水戸とともに車を走らせ、直販を行なう仙台市内の大型書店に本を何度か運び込んだことがある。
店内は活字を求める人々で混雑し、レジには長い行列ができていた。書店員が棚に並べている横から手を伸ばして写真集を買う客の列を見て、彼は「やっぱり本を出して良かった」と救われた思いがしたと話す。
「発売当初、河北新報はこういう悲惨な写真集を出して金もうけをするのか、という非難の声もあったんです」と編集長役を務めた河北新報メディアセンター長の今野俊宏が言う。
「ただ、あの早い段階で写真集を出すことになった背景には、被災地における情報の少なさがありました。準備に取り掛かったのは一四日です。そのときはテレビもネットも見ることができず、新聞だけが貪るように読まれていた。被災地にいる人たちに、何が起きたのか、何が起きているのかを知って欲しい。それが第一の目的でしたから、一刻も早く出さなければならないと考えたんですね」
三・一一の震災による死者の九〇%以上は津波による溺死だった。誰も経験したことのない災害の現場から戻ってきた記者やカメラマンは、「みんな青ざめた顔で、放心状態だった」と編集局写真部長の毛馬内和夫は語る。
通信手段のない場所にいた記者の中には、ヒッチハイクを繰り返しながら、数日かけて仙台市に辿り着いた者、徒歩や住民に借りた自転車で帰社した者もいた。報道写真集に掲載される写真は、そのような彼らの手によって撮影された数千枚の中から選ばれた。
「自分が記者たちに言ったように、写真のセレクトも美的だったり情緒的過ぎたりするものを避け、東京ではなく被災地の人々に見ていただくんだ、という視点で行ないました」
そうして彼らの写真集は作られた。その一冊の発行部数は八月の時点で四五万部を超え、震災以後の東北地方における最大のベストセラーになったのである。
※週刊ポスト2011年9月30日号