かつて我が国には、一民間人でありながら、北方領土返還交渉に尽力し、北方四島を最も“日本に近づけた”人物がいた。四島一括返還という大原則を曲げることなく旧ソ連、ロシアと渡り合い、そのぶれない姿勢で相手から敬意すら獲得していた。「ミスター北方領土」と呼ばれた故・末次一郎氏である。
2001(平成13)年78歳で逝去するまで、戦後、一貫して在野にあって日本の将来を担う青年の育成と、領土問題などの戦後処理に生涯を捧げた。「歴代総理の指南役」とも「最後の国士」とも言われた。沖縄返還問題では、沖縄、アメリカ、日本政府の3者に働きかけ、72(昭和47)年の本土復帰に重要な役割を果たした。
北方領土問題では、時の首相に直接アドバイスするなど、ソ連通(ロシア通)として北方領土返還運動を陰から支えた。我々は今、彼から何を学ぶべきなのか。生前の末次氏と親交を結び、その逝去の際には葬儀委員長を務めた元首相の中曽根康弘氏がその比類なき精神を振り返る。
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――末次一郎氏は、滅多にメディアに登場しませんでしたが、日ソ(日ロ)間交渉に大きな役割を果たしたと伝えられています。
中曽根:「末次君は昭和48(1973)年から日ソの学者による『日ソ専門家会議』を開催し、日ソ間の理解を深めようと努力し、独自のパイプを築いていた。当時、日本人の中で最もソ連を知る人間だったと断言できるでしょう。なにしろ100回以上、ソ連を訪問しましたから。末次君は時の総理や外務省だけでなく、求められれば、交渉の“落とし所〟をどこにするかに悩んでいたソ連の高官にもアドバイスしていました。そのため、どちらからも信頼されていたのです」
――末次氏は著書(『「戦後」への挑戦』)の中で、自らも関わった引き揚げ援護運動に関連して、ソ連のやり方への激しい憤りを綴っています。恨みすら抱くソ連に対し、敵に塩を送るような行ないをしたのはなぜでしょうか。
中曽根:「外交交渉は勝ち負けじゃない。どちらも納得しなければならないのです。それには、当事者同士が信頼関係で結ばれなければならない」
――しかし、一筋縄でいく相手ではない。
中曽根:「確かに、冷戦時代のソ連は西側諸国との対立が激しく、状況的にも厳しかった。実際、ソ連は並々ならぬ相手でした。そもそも向こうに、北方領土問題が『問題』だという認識がない。一方、末次君は四島一括返還という主張に微塵も揺るぎがない。議論だけならば永遠に平行線です。末次君はそんな状況だからこそ、ソ連側要人や学者との信頼関係の構築に努めたのです。
末次君の人に対する評価軸は一定していました。自分の国を愛しているかどうか。たとえそれがソ連、ロシアの人間であっても、立場や考えが異なる人間であっても、愛国者同士ならばその一点で話が通じた。ヤコブレフ(ゴルバチョフ政権時代のナンバー2)やプリマコフ(エリツィン政権で外相、首相を歴任)との信頼関係もそうです」
――具体的にどのようにして、ソ連の要人たちと信頼関係を結んだのでしょうか。
中曽根:「プリマコフにこんな話を聞いたことがあります。『“ミスター北方領土”からもらった般若心経の掛け軸は、今でも大事に自宅に飾っています』。末次君に聞くと、プリマコフの奥さんが亡くなった際、哀悼の手紙と一緒に、自分で写経した般若心経を贈ったのだという。
きっと末次君は、般若心経の中身も教えたことでしょう。それは『日本人はこういう考え方をする』ということをレクチャーしていることにもなります。プリマコフは、『“般若心経”の掛け軸を毎日眺めては、日本人を理解しようとした』と言っていた。日本人についての理解を深めさせることは、ひいては、今後の交渉や関係作りにもプラスになる。実際、ヤコブレフやプリマコフの発言は、徐々に日本にとってプラスの方向に変わっていきました」
※SAPIO2011年10月5日号